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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回は、北海道の北東部の海辺に、謎の海洋漁労民族「オホーツク人」を尋ねる旅について述べた。今回の旅は、熊野古道と古座街道、和歌山県の熊野。和歌山県すさみ町周参見から古座川沿いの雫の滝、真砂、一枚岩、明神の川集宿、潜水橋、河内神社を通り古座に抜ける旅について述べる。熊野古道(くまのこどう)は、日本の和歌山県を中心に広がる古代の巡礼路であり、熊野三山への参詣路として、古くから信仰の対象となっている有数のパワースポットとなっている。
熊野古道の目的地である熊野三山(熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社)は、古代からの熊野信仰の中心地で、社殿は紀元前33年に創建されたとされていて、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が主祭神として祀られている熊野本宮大社(くまのもとみやたいしゃ)、新宮市に位置し、熊野速玉大神と熊野夫須美大神の夫婦神が主祭神として祀られています。国の天然記念物である巨大なナギの木が鎮座する熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、主祭神・熊野夫須美大神(クマノフスミノオホカミ)をはじめ13の神が祀られ、滝のある霊場としても知られている熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)からなり、1993年には「熊野参詣路と関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産に登録されている。
それぞれの大社の外容は以下のようになる。
熊野本宮大社
熊野速玉大社
熊野那智大社
熊野古道とは以下の6つの道を指している。
- 紀伊路(渡辺津 – 田辺)
- 小辺路(高野山 – 熊野三山、約70km)
- 中辺路(田辺 – 熊野三山)
- 大辺路(田辺 – 串本 – 熊野三山、約120km)
- 伊勢路(伊勢神宮 – 熊野三山、約160km)
- 大峯奥駈道 (吉野 – 熊野三山)
これらのルートは、古代からの巡礼の道として整備され、多くの信仰者やハイカーが訪れる人気のある道となっており、それぞれのルートには、歴史的・文化的な価値があり、自然の美しさを楽しむことができるものとなっている。
熊野古道の中でも大阪方面からルートである紀伊路(きいじ)は、鳥羽離宮(現在の城南宮)から淀川を下り、摂津の窪津で上陸、沿道の王子社に巡拝を重ねながら河内国、和泉国を通り、現在の府県境でもある雄ノ山峠を越えて紀伊国に入ります。そして、和歌山市、海南市、有田市、有田郡、御坊市、日高郡内を通り、中辺路、大辺路との分岐点である田辺市を経て熊野三山に至る道となっている。
小辺路は、高野山と熊野三山の両霊場を最短距離で結ぶ道であり、紀伊半島中央部を南北に縦断し、途中には伯母子山をはじめとする標高1,000m以上の峠を三度も越える、熊野参詣道の中でも最も険しい道となる。
中辺路(なかへち)は、紀伊路の終点である田辺から山中に分け入り熊野本宮に向かうルートとなる。ここは、特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が延べ100回以上も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)となった場所で、長く険しい山道を越えるものとなる。
大辺路は、田辺から海岸線沿いに進み、熊野三山に至る道となり、大辺路に比べ距離が長く、奥駈をする修験者や西国巡礼を三十三回行う「三十三度行者」と呼ばれる専門の宗教者が辿る道であった。ただし、江戸時代からは、信仰と観光を兼ねた人々の利用が知られ、本来の姿が良好に保たれている範囲は限られるが、海と山の織りなす美しい景観に恵まれた道となる。
紀伊半島東部を南下する伊勢路(いせじ)は、伊勢神宮と熊野三山を結び、「伊勢へ七度、熊野へ三度」と呼ばれた信仰の路であり、江戸時代から、お伊勢参りの後に伊勢路を通って熊野詣が行われた場所となる。ここでは、熊野古道らしい石畳や竹林はもちろんのこと、峠から熊野灘を一望できるコースや、日本一ともいわれる棚田を望むコース、熊野川の参詣道など、多彩な風景を楽しめるのが特徴で、多くの熊野古道観光客が訪れる場所となる。
最後に、大峯奥駈道は熊野と吉野を結ぶ修験道の山駈けの道であり、役の行者が開いたとされる修験道の根本道場である大峰山を踏破するものとなる。
これら熊野古道に対する書籍としては、ハイキングガイドとしては「ちゃんと歩ける熊野古道 中辺路・伊勢路」
歴史的宗教的背景を学ぶものとしては「熊野三山・七つの謎―日本人の死生観の源流を探る」などがある。
司馬遼太郎の「街道をゆく 熊野・古座街道」では、この熊野に残る西日本の風俗である若衆組について述べている。若衆組は数え十五歳の少年が加入し、妻帯とともに退会していく組合で、日本独自の農村社会を特徴づけていた組織であり、その基礎原理としては「平等」であり、一旦入会すれば、そこでは地主の子も、自作農の子も、小作人の子もすべてが平等で、中世の封建社会の中では珍しい風習となる。
若衆組の主な目的は、共同体の祭礼をやることと、若者各個においては自分を婚姻に導いてくれる重要な機関であるとされていたらしい。若衆組に入ると、若衆は自分の家で起居せず、「若衆宿」と独立した建物の中で過ごす。
熊野の古座川町には、この「若衆宿」の跡が残っており、彼らはそこを訪ねていったのである。
更に、熊野でもう一つ歴史的に有名なものとして「熊野水軍」と呼ばれる海賊集団がいる。彼らは熊野水軍の拠点として栄えた白浜を訪れ、その歴史についても語っている。白浜は現在では海辺のリゾート地として栄える場所となっている。
コメント
[…] 街道をゆく 熊野・古座街道 […]
[…] ことを「巡礼」と呼んで区別している。日本では、伊勢参り、金比羅参り、”街道をゆく 熊野・古座街道“で述べた熊野詣でなどの「参詣」と西国巡礼などの「巡礼」とは、形態の […]
[…] 次回の旅は、熊野古道と古座街道、和歌山県の熊野。和歌山県すさみ町週参見から古座川沿いの雫の滝、真砂、一枚岩、明神の川集宿、潜水橋、河内神社を通り古座に抜ける旅について […]
[…] 「街道をゆく」第8巻より。 前回の旅は、熊野古道と古座街道、和歌山県の熊野。和歌山県すさみ町週参見から古座川沿いの雫の滝、真砂、一枚岩、明神の川集宿、潜水橋、河内神社を通り古座に抜ける旅について述べた。今回の旅は鹿児島県の種子島と屋久島、奄美諸島となる。 […]