空海と四国遍路とサンティアゴ巡礼

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はじめに

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。 前回はモンゴル紀行について述べた。今回は空海と四国遍路、スペインのサンティアゴ巡礼について述べる。

空海

街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“でも述べている空海は、平安初期(西暦800年前後)の僧侶で、弘法大師とも呼ばれ、真言宗の開祖となる。空海は”瀬戸内国際芸術祭“でも述べている讃岐の国(現在の香川県)で、郡司である父佐伯田公と、玉依御前を母として生まれ、幼名佐伯 眞魚(さえき の まお)と呼ばれていた。

若い時代は官吏としての父の後を継ぐべく、京で学問を修めていたが、19歳を過ぎたときから30歳まで、一説によると”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“で述べた阿波国(徳島県)、”街道をゆく 檮原街道 – 高知と四国山脈の旅“で述べた土佐国(高知県)、”街道をゆく – 南伊予・西土佐の道 坂の上の雲と南国の伊達家“で述べた伊予国(愛媛県)などの山中を訪れて修行に明け暮れていたとされている。空海が著した儒教道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』にも、若い頃に伊予国の石鎚山などで修行したと記されている。

このように四国が選ばれた理由としては、四国が生まれた故郷であったということともに、当時の四国の山間地は極めて辺鄙で、修行とし歩く苦行に適していたということもあったと推定される。

空海の開いた真言宗は、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“や”空海と真言宗と印と曼荼羅と仏像“でも述べているように大日如来(だいにちにょらい)を本尊とし、即身成仏(そくしんじょうぶつ)が大切な教えとされている。そのために必要な修行が、本来持っている仏心(ぶっしん)を呼び起こす「三密(さんみつ)」というもので、自身の「身(しん)=体の行動」、「口(く)=言葉」、意「(い)=心」の3つを整えることが欠かせないと説かれている。

この修行の一つとして「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」とばれるものがあり、これは虚空菩薩の真言「のうぼうあきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか」を1日1万回ずつ、100日かけて百万回唱えることを山中で行うことで、記憶力を増強させる密教の秘法となるが、空海はこの修行を四国の山岳の中で行ったと言われている。

空海はその後31歳で遣唐使として唐に渡り、密教の理解に必要なサンスクリット語(梵語)を習得しながら、密教の勉強に励み、真言密教を正式に受け継いだ僧の恵果(けいか)という唐の国師に会い密教の伝授を受けている。

唐で2年を過ごした後の806年に日本に帰国、真言密教の布教を開始し、816年に高野山を修禅の道場として開創し、835年に入定を果たしている。

空海が亡くなると、彼を慕う多くの弟子たちが四国での彼の足跡を辿って修行するようになり、それらが四国巡礼(四国八十八ヶ所巡り)へとつながって行く。

四国巡礼(四国八十八ヶ所巡り)

四国遍路は四国4県を一周し、空海の修行の足跡を辿る全長約1400kmの巡礼の旅となる。

四国遍路に関する言い伝えとして有名にものに「衛門三郎の伝説」がある。衛門三郎は、平安時代に伊予国を治めていた河野家の一族で、権勢をふるっていた豪農であった。彼は欲深く、民の人望も薄かったといわれている。

あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れ、8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし(つかんで地面にたたきつけたとする説もある)、鉢は8つに割れてしまい僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師(空海)であった。

その後、三郎は子供を亡くすなど悲しい出来事が相次いで起こり、悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、懺悔の気持ちにとらわれる。三郎は、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出かけ、二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして巡礼を続け、その途中、阿波国焼山寺近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、大師が「望みはあるか」と問いかけると、三郎は「来世には人の役に立ちたい」と託して息を引き取った。

翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。

この「衛門三郎の伝説」は、四国遍路の始まりとも言われている。四国遍路が現在の八十八ヶ所になったのは、江戸時代初期の真念によるもので、真念は特定の寺院を持たず各地をまわり仏教の教えを広める遊行僧であったが、敬愛する空海の足跡を訪ねつつ四国各地を巡る中で、どうすれば空海の教えと四国遍路が世に広まるかを考え、真念が回るべきと考えた八十八ヶ所の霊場を掲載した「四国遍路道指南」を発行、これをガイダンスとして修行僧はもちろん庶民も遍路が可能になり現在のような四国遍路となっていった。真念は四国遍路に関して様々な活動を行っており、例えば遍路道に200基におよぶ道標を設置したと言われている。それらのうち現在でも残っているものは28基となる。

四国遍路には、空海が悟りを開いたと言われている室戸岬の修行場である御厨人窟(みくろど)がある。そこで空海は、ある日の夜明け直前、東の空に輝く明星(虚空菩薩の化身と言われている金星)を見て、それが体内に入り虚空(宇宙)と一体となる悟りを得たと言われている。

また八十八ヶ所の寺の中には、真言宗だけではなく、天台宗や臨済宗の寺もある。これらは、元々真言宗の寺であったものが廃れ、再興されたり、真言宗と同じくらい古くからある寺などの理由による。

サンティアゴ巡礼

巡礼とは聖地や寺院・神社を巡る宗教行為であり、キリスト教、イスラム教、仏教など様々な宗教で世界的に行われているものとなる。

日本の場合、一ヶ所を目指すものを「参拝」と表して「参り」「詣で」とも呼び、複数の場所を巡ることを「巡礼」と呼んで区別している。日本では、伊勢参り、金比羅参り、”街道をゆく 熊野・古座街道“で述べた熊野詣でなどの「参詣」と西国巡礼などの「巡礼」とは、形態の上でも意識の上でも大きな違いがある。

複数の聖地を訪れる巡礼では、聖地に番号が振られ札所と呼ばれている。これは巡礼者が訪れた証に、氏名を書いた木札を納めたためで、現在でもそれが紙札に変わりながら続いている。

これに対して”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“にも述べているスペインのサンティアゴ巡礼ではサンティアゴ・デ・コンボステーラの大聖堂を目指すもので、日本の「参り」「詣で」に近いものとなる。

またその道のりもユーカリ並木が続く自然の道を歩く、よりスポーティな旅となっている。

日本での石標にあたるものは、ここでは「帆立貝」の印で、ドイツ語でホタテ貝をヤコブの貝(Jakobsmuschel)とか、巡礼者の貝(Pilgermuschel)と言い、聖ヤコブ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼と、ホタテ貝が結び付けられている。

この巡礼は”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べたレコンキスタ(イスラム王朝によるスペインの征服への反撃)とも連動しており、キリスト教世界の「西端」にあるサンティアゴ・デ・コンボステーラは「地の果て」の場所として、そこまで旅をすることは、”キリスト教の核心を読む「アウグスティヌス」告白を読む“で述べているような苦難の末の救済を意味し、ユーロッパにおけるキリスト教の復興も意味していたため、王権や協会による巡礼者の保護、巡礼路の整備がおこなれた。

四国遍路とサンティアゴ巡礼

ともに宗教的な聖地や寺院・神社を巡る行為でありながら、四国遍路は回遊型の巡礼であり、閉じた輪となっているためスタート/ゴールを自由に選べるものに対して、サンティアゴ巡礼ではスタートとゴールが明確な直線的巡礼という違いがある。

またサンティアゴ巡礼では、巡礼地の整備は王権や協会によって行われていたのに対して、四国遍路は四国の人々による「お接待」と呼ばれる庶民的な活動をベースとしているところにも違いはある。この「お接待」は巡礼者に食事や宿舎などを提供する「お接待」を行うことで、弘法大師に救われると信じて行われるもので、このようなしくみがあったことで、四国遍路というシステムが持続可能に長く続けられることとなっている。

現在、四国遍路とサンティアゴ巡礼は協力協定を結び、人々が行き来する形となっている。

次回は、朝鮮半島と日本との間に位置し、古来より鉄の会場輸送の経路となり、神話や伝承の上で不思議な様相を帯びつつ、日韓両国の人と文化の歴史的な交流の舞台となって壱岐・対馬について述べる。

コメント

  1. […] 空海と四国遍路とサンティアゴ巡礼 […]

  2. […] 第13巻より。 前回は空海と四国遍路とスペインのサンティアゴ巡礼について述べた。今回は朝鮮半島と日本との間に位置し、古来より鉄の会場輸送の経路となり、神話や伝承の上で不思 […]

  3. […] 茶はチャノキと呼ばれるツバキ科の常緑樹の葉や茎から作られる飲み物となる。日本では奈良時代、唐から入ってきたと言われており、当時遣唐使と共に唐に渡った”街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“に述べている最澄が天皇に茶を立てたという記録や、”空海と四国遍路とサンティアゴ巡礼“で述べている空海が茶の種を持ち帰りそれが大和茶の始まりであるという記録が残されている。 […]

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