街道をゆく モンゴル紀行

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く大五巻モンゴル紀行

前回愛知県名古屋市近辺の旅について述べた。今回はモンゴル紀行について述べる。

今回の旅は、日本を離れてモンゴルへ。旅の始まりは新潟から、新潟空港からロシアのハバロフスクへと飛び、さらにイルクーツクのモンゴル領事館でビザを受け取り、二度の乗り換えでモンゴルにたどり着く。現在はモンゴルの首都ウランバートルへの直行便もあり、5時間程度で着くことができるが、1973年当時はこれがモンゴルへの最短ルートであった。

ハバロフスクでの司馬遼太郎は、アムール川の対岸に遥か広がる中国領を望み、かつて国境をはさみソ連軍と対峙した戦車連隊士官時代の記憶に、運命と歴史の皮肉を感じていた。イルクーツクでは、江戸時代に日本から漂着した大黒屋光太夫の軌跡を偲ぶ。

ようやく入国したモンゴルの首都ウランバートルで司馬遼太郎は、ノモンハン事件の悪夢に日本人とモンゴル人の不幸な出会いを嘆く一方、足を伸ばした南ゴビでは、満天の星空や一望何億という花の咲きそよぐ草原、さらに純粋な遊牧民たちとの交流に、帰りがたいほどの想いにかられる。

日本人がモンゴルと聞くとまず思い浮かべるのが、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べている大元帝国による九州への侵攻(元寇)となる。これは鎌倉時代の1274年と1281年の2回にわたり、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・ハンにより送られた侵攻軍を、神風(台風)の助けも借りて撃退したものとなる。

当時のモンゴルは、1240年にはヨーロッパの北端であるポーランドや”街道へ行けなかった国-ハンガリー“で述べているハンガリーにまで侵入して、有名なそしてテンプル騎士団などのキリスト教騎士と戦うなど、ほぼユーラシア大陸の端から端まで勢力範囲に収めていた歴史上最大の帝国となっていた。。

この大元帝国も1380年頃に朱元璋が南京を首都として作った明に滅ぼされた。中国史における元朝は1368年に滅ぶが、中央ユーラシア史における元朝は滅んではおらず、モンゴル高原へ退却した後も約20年間はクビライの王統は続いており、さらに約100年間は「大元」の国号を使い続けていた。

その後クビライ王朝の勢力は衰えていき、新たに台頭してきた女直(ジュシェン)族の勢力拡大により、最終的にクビライ王朝は、女直軍に降伏して元朝ハーンの玉璽を差し出し、これにより女直族はチンギス・ハーンの受けた天命が自分にも移ったとして、民族名を「女直(ジュシェン)」から「満洲(マンジュ)」に改め、後の清朝となっていき、モンゴルは清朝に統治されることになる。

1911年に清朝が崩壊するきっかけとなる辛亥革命が起き、そのタイミングでモンゴルは清朝からの独立を宣言、しかし1912年にロシアに独立宣言を自治宣言に格下げさせられ、ロシアは外モンゴルにおける中華民国の宗主権を認め、中国は内政・通商・産業にわたる外モンゴルの自治を認め、露中両国は軍隊を派遣せず、植民を停止することが取り決められた。

1917年にロシア革命により、帝政ロシアが崩壊、1922年にソヴィエト社会主機共和国連邦成立し、2年後の1924年にモンゴル人民共和国が成立する。また1939年満洲国関東軍とモンゴル人民共和国との間で国境線を巡るトラブルが起き、日本軍とソ連の赤軍が軍事介入して日本側が敗北を喫したノモンハン事件が起きる。

モンゴル人民共和国の独立が国際的に認められたのは、モンゴル人民共和国が内モンゴルの領有権の主張を取り下げた1945年2月のヤルタ協定においてで、1961年には国際連合に加入し、日本とも1972年に外交関係を樹立した。モンゴル人民共和国は長らくソ連の衛星国として共産圏の中にあったが、1989年のペレストロイカの影響で民主化が始まり、1990年3月には複数政党制を採用し、1991年12月にソ連が崩壊すると、1992年1月に新憲法を採択して社会主義を放棄し、2月には国名をモンゴル国に改めた。

司馬遼太郎等がモンゴルを訪れたのは1973年、日本と国交が樹立して1年後であるため、直接の航空便はなく、まずはロシアのハバロフスクに新潟から飛行機で飛び、

さらにイルクーツクに飛ぶ。

イルクーツクでは、江戸時代の廻船問屋大黒屋光太夫の話題に触れている。大黒屋光太夫は駿河沖で暴風に遭い航路を外れ、七ヶ月の漂流ののち、アリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着。そこでロシア人と遭遇、その後はカムチャツカオホーツクヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)にイルクーツクに至る。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会い、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見し、帰国を許される。

このような数奇な運命を辿った光太夫の生涯を描いた小説としては井上靖の「おろしや国酔夢譚」や吉村昭の「大黒屋光太夫」がある。

イルクーツクでは、モンゴル領事館でビザを受け取る。そこからソ連製の小型プロペラ旅客機アントノフ24に乗り空路モンゴル国の首都であるウランバートルに向かう。

AN24型機は、ソ連国内線でよく使われている航空機で、40座席程度の非常に小さい旅客機となり、雨天に雲の中を飛ぶと壁も薄い為、雨音が大きく響く構造となっている。

ウランバートルは清朝時代には庫倫(クーロン)と呼ばれていたが、モンゴル独立後、モンゴル語で「赤い英雄」を意味するウランバートルという名前に変わった。

現在では人口140万の近代都市だが、1970年代の当時は人口28万人の鄙びた都市だったらしい。

モンゴルは広大な草原の広がる土地で、近年TBSの「VIVANT」やnetflixの「力の強い女カン・ナムスン」など様々なドラマの舞台となっている場所でもある。

司馬遼太郎一行は、ウランバートルでナチス・ドイツとの日独防共協定の締結につながったノモンハン事件に用いて述べた後、南ゴビに向かい、満天の星空や一望何億という花の咲きそよぐ草原、さらに純粋な遊牧民たちとの交流を行い旅を終える。

コメント

  1. […] 実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。 前回はモンゴル紀行について述べた。今回は空海と四国遍路、スペインのサンティアゴ巡礼に […]

  2. […] リー高原に行きたいと述べている。それらの中で、モンゴル高原に関しては”街道をゆく モンゴル紀行“にて、ピレネー山脈に関しては”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルと […]

  3. […] この団茶は、”街道をゆく モンゴル紀行“でも述べたモンゴルにおいても「チャ」と呼ばれ、肉食と乳のみで、野菜をほとんど摂らない遊牧民族が、壊血病(ヴィタミンCの欠乏症)を免れるために、鰹節のようにナイフで削って粉状にして動物性の食物とともに煮て食べていることでも知られている。 […]

  4. […] 彼が活躍した時代は、中国では”街道をゆく モンゴル紀行“でも述べているチンギス・カンが元を作り、日本では”街道をゆく 三浦半島記“で述べている鎌倉幕府であり、”街道をゆく 壱岐・対馬の道“でも述べている元寇で元が日本に侵攻しようとした時期でもある。 […]

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