街道をゆく – 長州路

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第一巻 長州路

前回葛城みちについて述べた。今回は長州路について述べる。

長州路

長州路は現在の山口県の山口市であり、司馬遼太郎の小説に数多く登場する幕末の志士たちが現れた舞台でもある。旅は、明治維新の推進力となった長州人怜悧猪突猛進を併せ持つ気風について述べられた後に、関門海峡にある下関の「阿弥陀寺町」「壇ノ浦町」からスタートし、時代を遡って戦国時代大内毛利時代の話になった後に、湯田温泉山口市津和野へと進み、津和野が生み出した森鴎外西周などの話で締め括られる。

旅の始まりは本州(山口)と九州を結ぶ都市下関(地図左下星)から

中世に平氏源氏が戦い、平氏が滅亡した壇ノ浦へ。

下関の正式名称は赤間関(赤馬関)で、古い人には馬関(ばかん)と呼ばれていたとのこと。その馬関にある阿弥陀寺(赤間宮)は、壇ノ浦で平氏とともに沈んだ幼帝安徳天皇(下絵上部中央)

を祭神としており、明治以前は寺で阿弥陀寺と呼ばれていたものが、明治以降の天皇の神格化とともに神社となったものらしい。赤間宮には平家一門の墓もある。赤間宮の初代宮司は白石正一郎という下関の豪商で、幕末の長州志士の活動資金をほとんど出していたらしいが、ほとんど歴史に名を残さず、また本人も過去の勘定書を出すような人ではなかったらしい。(高杉晋作坂本龍馬西郷隆盛等の幕末の人物ともかかわっており、幕末を舞台としたドラマにも度々現れる(例えばNHKで最近放映された「西郷どん」にも登場している))

ここから話は、周防戦国大名である大内氏の興亡、その後を引き継いだ毛利氏と、幕末長州の話へと続き、街道の旅としては山口市(上記地図の中ほどの星)にある湯田温泉の老舗の温泉宿「松田屋ホテル」に向かう、

ホテルで食事に出てきたものが、早松茸(サマツ)と呼ばれる6月から8月にとれる季節を勘違いしてでてくる松茸で、形や色は松茸そのものだが松茸特有の香りがほとんどせず、「ニセマツタケ」「マツタケモドキ」、「バカマツタケ」と呼ばれたりするもので、市場ではほとんど売られていないものらしい。

ここで幕末の長州藩の非武士により構成された戦闘集団である奇兵隊に話は移る。

幕末当時最強の戦闘部隊だった奇兵隊は、射撃は原則として伏射で、地物を利用して「隠れて」打ち、躍進するときも、地物から地物へネズミのようにかけて取り憑き「隠れながら」移動する。この現在の感覚で考えると当たり前のような戦闘方式が、当時の武士の感覚だと「ぬすっといくさをする」と見られて、実際の戦闘で大きな戦果を生んでいたらしい。また、奇兵隊の屯営の図書館の蔵書はかなり充実していて、単なる戦闘集団だけでなく、学ぶ集団でもあったとのこと。

奇兵隊から時代は遡り、戦国時代の大内氏の話に進む。大内氏は、西は九州の福岡あたりから山口島根鳥取広島岡山を含む広大な領地を支配した西日本最大の大名であり、その首都である山口市は、室町南北朝の頃に大内弘世が京都の公家の妻を夫人としたときに、夫人が京都を思い出し寂しがらないように、京都風な都市として構築されたもので、単なる路や建物だけでなく、京都の職人や童などを呼び文化的なものも京都様式にしてハード/ソフトともに作り上げたものとなる。

応仁の乱のキーパーソンの一人でもあった大内政弘/義興の子である大内義弘の時代に大内氏の富強は絶頂に達したが、重臣であった陶晴賢(すえはるかた)の反乱によって自刃した。その陶晴賢は毛利元就により滅ぼされ、毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)についたため、領地を大幅に減らされて主城としていた広島を追い出されて山口に押し込められ、更に藩庁を利便性の悪いに移され、徹底的に痛めつけられて幕末の長州になった。

司馬遼太郎が向かった山口にある瑠璃光寺五重塔は、応永6年(1399)の応永の乱で命を落とした大内義弘の菩提を弔うために、弟の盛見が建立を計画、嘉吉2年(1442)に完成したものとなる。

瑠璃光寺五重塔は、先述した毛利氏の萩への移動により、もともとあった寺も萩へ移転したときに、城にも櫓にもならないため置き捨てられ、80数年経ったときに、毛利氏の経済が復興して塔の周りに再度寺が構築されたという複雑な時代背景を持っている。

長州の旅は、次に山口を離れ津和野(地図右上星)に向かう。津和野は長州に対するために設けられた現在の島根県に位置する小藩で、幕末には長州と幕府の板挟みとなり苦しみを味わった地方となる。

津和野は殿町とよばれる古い商家街も残る山陰の小京都で、森鴎外西周などの文人を多く輩出している。森鴎外は「舞姫」「ヰタ・セクスアリス」「阿部一族」等の小説や、軍医として日清・日露戦争に従軍したことでも有名な作家で例えば司馬遼太郎の「坂の上の雲」等にも登場する。

西周(にしあまね)は、日本で最初の人文学者で、京都新撰組がチャンバラをしていた時に、彼はオランダコント実証哲学に傾倒し、経済学法律学を専攻し、カントにも強い関心を持ち「我が国の先人に礼を求めれば、荻生徂徠の考え方がかろうじて西洋に近いか」などと考えていたとのこと。前述した徳川慶喜が将軍の時に帰国し、慶喜の秘書役として京都におり、明治になって鴎外が上京した時に彼の家に寄寓していたこともある。

周は言葉の創造者でもあり、西洋語を翻訳して、「哲学「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など本ブログにも頻繁に登場する多くの哲学・科学関係の言葉を訳語として考案した先駆者となる。

長州の路は、津和野を抜けた後、日本海側の益田(地図右上)に向かい、医光寺の”雪舟と自由自在“でも述べている雪舟の作といわれる庭を眺めたところで終わる。

東は本州に、西は九州に、南は四国に、そして北は中国大陸への距離が国内随一の近さという地理条件から、多方面との文化交流が生まれて独自の歴史を育んだ山口(長州)は様々な歴史の跡とそれらから生まれた文化がある。

次回陸奥のみちについて述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく – 長州路 […]

  2. […] 「街道をゆく」第三巻より、前回は長州路について述べた。今回は陸奥のみちについて述べる。 […]

  3. […] その後尼子経久が死んだ後にその息子の尼子晴久を月山富田城の戦いで破り、現在の山口、広島、島根、鳥取を含んだ広大な領地を治めるに至った。その後は関ヶ原で西軍に加わったため、山口(長州)に閉じ込められ、幕末の中心となったことは”街道をゆく-長州路“に述べている。 […]

  4. […] 街道をゆく – 長州路 […]

  5. […] 米沢の街では、林泉寺という直江兼続の墓がある禅寺を訪ね、上杉謙信を祭神として米沢城本丸跡に建立された上杉神社を訪ねている。米沢藩は全盛期の時代の1/10以下まで石高が減少した為、”街道をゆく – 長州路“で述べた毛利氏と同様に貧窮を極め、名家の墓であっても質素な作りであったらしい。 […]

  6. […] に活躍した水墨画家で、京都の相国寺で修行を積んだ禅僧でもある。雪舟は、”街道をゆく – 長州路“でも述べている山口の大内氏の送った遣明船で中国に渡り(1468年)、2年間本場 […]

  7. […] に活躍した水墨画家で、京都の相国寺で修行を積んだ禅僧でもある。雪舟は、”街道をゆく – 長州路“でも述べている山口の大内氏の送った遣明船で中国に渡り(1468年)、2年間本場 […]

  8. […] 次回は長州路について述べる。 […]

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