街道をゆく – 陸奥のみち

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第3巻 陸奥の道

前回長州路について述べた。今回は陸奥のみちについて述べる。

陸奥のみち

今回の旅は奥州(東北地方)となる。八戸からスタートし、八戸を治めていた南部氏の話から、南部氏が築城した根城跡と同じく南部氏が建立した櫛引八幡宮、そして階上軽米をへて久慈へ向かう久慈街道へ、そこで尊王の志士である高山彦九郎柔道で有名な三船久蔵の碑を見て、陸中海岸沿いの浜街道を北上し、板橋、侍浜、小子内、種市を経て種差海岸へ向かう。さらに白石、十和田陸羽街道を経て、北上後、野辺地を経て下北半島を見る。そこから浜へ降りて南部藩津軽藩の藩境を示す藩境塚「四つ森」と呼ばれる場所で旅を終わる。

今回の旅は奥州となる。本の中では、日本文化と米作との関係から始まり、寒冷で米作が困難となり、狩猟生活が中心の東北の民族である蝦夷(えみし)の話に移る。そして旅の始まりは南部一族のいた八戸からのスタートとなる。現在は新幹線で3時間30程度で行けるが、当時は八戸飛行場への飛行機での旅だったらしい。

「街道をゆく」では、鎌倉政権に奥州藤原氏が滅ぼされた時に、諏訪方面(長野県諏訪市)から来てそのまま勢力を広げていった南部氏を中心に話が勧められている。南部と聞いて思い浮かべるのは南部鉄瓶だろうか

「南部鉄瓶に金気なし(金気とは水に溶け出た鉄分、そのにおいや味)」と称されるほど鉄臭さがなく、沸かしたお湯でお茶を淹れるとまろやかな味わいになり。サビが出にくく、丈夫なため手入れをすればまさに「一生モノ」として使えるものとして、世界中のお茶愛好家の中で人気のものとなる。

司馬遼太郎は主に南部氏について語っていたが、それ以外にも東北地方に関連したの歴史上の人物は多々いて、桓武天皇の時代(800年頃)の蝦夷であるアテルイ坂上田村麻呂、そして前九年の役(1051年)の時代の安倍氏清原氏、そして後三年の役(1083年)に登場した全国の八幡宮に祀られている八幡太郎として有名な源義家藤原経清源義経と鎌倉幕府に滅ぼされた藤原三代、南部氏の配下で豊臣秀吉に争った九戸一族等、高橋 克彦の東北大河シリーズ「風の陣」「火怨 北の燿星アテルイ」「炎立つ」「天を衝く」等で東北人の反骨の生き様を読む事ができる。

ここで、奥州のみちに戻る。旅の始まりは八戸での夕食から始まる。夕食にはホヤ(海梢)の刺身が出る。

司馬遼太郎の文書には味の描写はなかったが、ネットで調べると「口の中でじゅわ~っとほとばしる繊細な潮の味」「酒をうまくする味」「酒飲みにしか分からない大人の味」等の表現がなされている。見た目と異なり日本酒に合う東北の珍味らしい。

八戸では、南部氏が築いた「根城」に赴く。根城は日本100名城にも選ばれている城跡で、現在では本丸、主殿・中馬屋・工房・鍛冶工房・板倉・納屋・東門が復元されている。

更に櫛引八幡宮も訪れている。

櫛引八幡宮は南部藩の藩社というべき神社で、南部氏の故郷である甲府から持って来られたものであるとのこと。神宝として美しい甲冑が納められているらしい。

南部氏の居城は、転々とし江戸時代には城は盛岡に築かれ、南部全体の首邑となっており、南部氏の発祥の聖地である八戸はただの漁村に成り下がっていたとのこと。これが1664年に当時の南部藩主の病死によるごたごたで、南部藩の中から八戸だけが切り出され八戸藩となったとのこと。このように元々あった領地が切り取られて別の藩となってしまったため、南部藩と八戸藩の間には深い確執が生じ、それぞれの藩主を暗殺するなどの暗い歴史があったらしい。

八戸出身の思想家として司馬遼太郎は「安藤昌益」を挙げている。

安藤昌益は江戸時代中期の医師・思想家・哲学家・革命家で、「直耕」という言葉を発明してそれを教義の中心においた。みずから農具をとって耕すという直接耕作者とその行為以外は認めず、大悪大罪とはその直耕者に寄生食する行為や階級をさし、士農工商の中で武士も商人も工匠も全てが悪で泥棒であるという過激な思想を持っていたらしい。当時の背景から考えても、外に漏れれば即座に首が飛ぶような危険思想を、八戸の人々は珠玉のようにして隠し伝えていたという、心情や気骨を持っていたらしい。

八戸を離れて次に向かったのは久慈になる。久慈は海女のいる北限の街でドラマ「あまちゃん」でも有名なところとなる。

八戸から久慈に向かう道は「久慈街道」とも呼ばれる。一行は久慈の中程にある巽山公園で久慈の街を一望し、八戸藩時代の話を思い浮かべる。

そこから侍浜小子内種市等の東北の美しい海岸を経て種差海岸へ向かう。

旅の最後は、陸奥湾の奥にある野辺地(地図上部星)にたどり着く。

野辺地の海外沿いにある藩境塚(通称「四つ森」)を見て、陸奥のみちの旅は終わる。四つ森は、江戸時代に南部領と津軽領の境界の目印として旧奥州街道沿いに築かれた土盛りの塚で、塚の直径はおよそ10m、高さ3.5mほどで、南部・津軽それどれ2基ずつあることから通称「四ツ森」と呼ばれているものとなる。

次回肥薩のみちについて述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく – 陸奥のみち […]

  2. […] 函館近辺は、これも以前陸奥のみちで述べた南部氏が1200年頃から度々征服事業をやっていたり、その後は北海道の最南端付近にある松前城を作った松前氏が1450年頃に侵略している。そ […]

  3. […] その福岡空港に降り立った司馬遼太郎等はまず「蒙古塚」に向かう。福岡は今から900年ほど昔の鎌倉時代に、当時ヨーロッパまで侵略していた元のクビライ・ハンによって二度に渡って攻め込まれた場所となる(二度とも台風(神風)によって救われたとある)。蒙古襲来の話は様々な小説や映画などの題材とされており、例えば”街道をゆく – 陸奥のみち“で述べた東北大河シリーズを書いている高橋 克彦による「時宗」は時の執権である北条時宗の観点からこの元寇について述べられている。 […]

  4. […] 街道をゆく – 陸奥のみち […]

  5. […] 源氏がいつごろから八幡信仰をするようになったかについては諸説があるが、源頼義が”街道をゆく – 陸奥のみち“でも述べている奥州の平定に向かったあと、鎌倉にしばらくいたときに由比郷に岩清水八幡宮から勧請して社を建てたのが始まりと言われている。その子義家が岩清水八幡で元服し”八幡太郎“と通称し、その家系から出た源頼朝が鎌倉幕府を起こしてほどなく、由比郷の八幡宮とは別に、あらためて京都の岩清水八幡宮から勧請して鶴岡八幡宮を鎮祭した。 […]

  6. […] その後、多賀城の主人は”街道をゆく – 陸奥のみち“で述べている様に、源義家、奥州藤原氏となり、鎌倉幕府が滅びて南北朝時代となった時には、公家の北畠顕家(あきいえ)と […]

  7. […] 日本の武士の歴史の中での大きな流れとなる平家と源家の争いは、1031年に平忠常が身内の争いの延長線上で乱を起こし、それを源頼信が討伐するという形から始まる。源氏はこの事件の後に、関東での勢力を拡大し、”陸奥の道“で述べたように後の前9年/後3年の役でその地盤を確定的なものとして、その約140年後に”三浦半島記“に述べているように鎌倉に源頼朝が鎌倉幕府を起こす。 […]

  8. […] 戦国時代に入ると、”街道をゆく – 陸奥のみち“にも述べている南部氏が侵略し、安東氏は敗れて北海道に撤退、さらに南部氏の一族であった津軽 為信(つがる ためのぶ)が独立 […]

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