街道をゆく – 肥薩のみち

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第三巻 肥薩の道

前回陸奥のみちについて述べた。今回は肥薩のみちについて述べる。

肥薩のみち

今回の旅は九州の南部(熊本鹿児島)となる。スタートは熊本空港から始まり、熊本市の北隣の植木町西南戦争の古戦場として名高い田原坂を訪れ、肥後薩摩の歴史的な対抗関係について述べた後、西南戦争の主人公である西郷隆盛について述べられている。田原坂からは八代に移り八代城跡を見た後、球麿川に沿って上流に遡り、阿蘇の麓にある人吉に行き、その地を収めた相良氏について述べられている。

人吉から肥薩の国境・久七峠を超えて鹿児島に入り、浄土真宗の寺を見ながら、鹿児島(薩摩)での浄土真宗の禁圧と隠れ門徒について述べている。最後に蒲生町に出向き、薩摩士族の独自のしくみでサムライ会社による地域の子弟の教育システムについて述べられている。

旅の始まりは熊本空港から、少し前までは地方の小空港という感じだったが、2023年に以下のような形でリニューアルされるらしい。

熊本阿蘇山の麓で取れる名水が名物で、空港ではくまもんのパッケージに入ったミネラルフォーターを飲む事ができる。(司馬遼太郎の時代にはもちろん無いものだが)

熊本市内に向かうまで、肥後人の「肥後もっこす」気質(中央政府からの干渉を嫌う、一人一党気質)について述べられた後に、2016年の熊本地震で一部が壊れ、最近修復された熊本城

を開いた虎退治で有名な加藤清正の話に進む。

次に、熊本から鹿児島に進み、反乱(西南戦争)の舞台となった田原坂の話となる。

西南戦争(1877年)は、幕末維新の主力メンバーである西郷隆盛が、維新に不満な武士勢力を集めて明治政府に対して反旗を翻したもので、司馬遼太郎が訪れた1970年代当時は、家族が実際にその場にいたという話が聞けたらしい。

熊本と隣接する鹿児島を拠点としていた島津氏が率いる薩摩人は、こちらも古くから中央政権に対する反骨精神を持った勢力で、例えば関ヶ原の戦いでは、反徳川の側(豊臣側)につき、豊臣側の敗北が決まった際に、有名な「島津の退き口」という敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながら大将を脱出させたり、幕末には以前述べた長州と組み、幕府を転覆させたりと、独立精神を持った批判勢力であったのが、西南戦争(田原坂の戦い)で消滅してしまったという歴史的なエポックの謎について司馬遼太郎は考えを侍らせている。

次に彼らが向かったのは球麿川となる。球麿川は熊本の人吉八代を流れる熊本県内最大の川であり、最上川富士川と並ぶ日本三大急流の一つでもある。

ここで述べられているのは、島津氏の時代よりも大幅に遡った大和朝廷建国の時代(紀元97年頃)の、ヤマトタケルによるクマソ征服に思いを馳せる。古事記の中の記述では「大和朝廷からきたヤマトタケル(日本武尊)が、クマソの長であるクマソタケル(熊曾健)の寝所に、女装して忍び込み、彼らを討ってその際にクマソタケルからタケルの名前をもらった」というエピソードが書かれてあるが。別の書物では「大和王権は武力では押さえられないので、クマソの長であるイサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した」ともある。

日本帝国の時代の教科書では善玉がヤマトタケルで、悪玉がクマソであるという教育が行われていたが、薩摩(鹿児島)では、自分が討たれる時にも相手に名前を与えた、クマソの方がヤマトタケルよりも優しく「よか男」であるという、独特の美意識を持っていたとも述べられている。

球麿川から鹿児島に向かう途中で、次に浄土真宗薩摩藩の「念仏停止」について述べられている。浄土真宗は鎌倉時代(元寇の時代)の親鸞を宗祖として蓮如を中興の祖とする本願寺宗のことで、中世では一向宗とか、門徒宗と呼ばれていたものとなる。「本願(阿弥陀如来)を信じ念仏申さば仏になる」という、念仏を唱えていれば「如来の本願力」(他力)による救済があるという信仰で、他の宗派と異なり妻帯もOKな比較的自由な思想の信仰となる。親鸞は元々放浪して決まった寺もなく、宗派の規模も少なかったものが、親鸞の子孫である蓮如が、独創的な組織を考案し、それを拡大、運営して全国組織としたことで、戦国時代には織田信長にも恐れられる一大勢力となった。

島津氏は、この組織力を恐れ、同時代に豊臣秀吉がキリスト教を禁止したように、領内での浄土真宗を禁止したものが「念仏停止」と呼ばれるものとなる。禁止されても存在していた隠れキリシタンと同様に、薩摩領内にも隠れ門徒は存在し、明治時代になるまでひっそりと教えを守っていたらしい。

東北でもそうだが、日本の南の端にあたる鹿児島でも話される言葉「鹿児島弁」も独特で非常にわかりづらい。イントネーション自体は京阪神から西のものに近い気もするが、話されている言葉自体は例えば「鹿児島には美しいお嬢さんが多い」が「カゴシナメ ヨカ オゴイサァタッガウェ」となる。ちなみにこれがモンゴル語だと「カゴシマ ボルブル サン オヒン アルビン」となり、こちらに少し近いくらいの解らなさとなる。

肥薩のみちの旅の最後は、錦江湾ぞいにある蒲生郡での独特な「サムライ会社」である「蒲生士族共有会社」の紹介がある。これは「共有社」の土地に植林をし、牧畜をしてその利益は「指定の東京遊学の費用にあてる」という地域全体での人材育成のしくみしくみで、現在の地域スポーツのサポートの学問版とでもいうものであろうか。江戸自体の武士階級が明治に入って地元の姉弟の教育に貢献するという話は、坂の上の雲秋山兄弟の話でも出ていて、近代日本の発展はこのようなものから起こったのかもしれない。

蒲生郡には竜ヶ城と呼ばれる山間の城跡がある。

ここにある岩肌に大量の梵字が掘られており、それがいつ誰が掘ったのかは何も記録が残っていない。

歴史の中に埋もれ、忘れられてしまったさまざまなドラマが日本各地に残っている、という言葉で肥薩のみちの旅は終わっている。

次回河内のみちについて述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく – 肥薩のみち […]

  2. […] 「街道をゆく」第三巻より、前回は肥薩のみちについて述べた。今回は河内のみちについて述べる。 […]

  3. […] 街道をゆく – 肥薩のみち […]

  4. […] 次回は肥薩のみちについて述べる。 […]

  5. […] 事件。これは、横浜の生麦(現在は、キリンのビール工場が近くにある)で、”街道をゆく – 肥薩のみち“でも述べた九州の薩摩藩がイギリス人に喧嘩を売り殺害し、賠償を求める […]

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