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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回の旅は「因幡の白兎」の神話で知られる白兎海岸や万葉歌人・大伴家持ゆかりの地など古代文化が息づく鳥取地方の旅であった。今回の旅は、”大乗仏教と涅槃経と禅の教え“や”禅的生活“等で述べている京都府京都市北区紫野にある大徳寺を中心とした話となる。
大徳寺は京都では紫野という街にある。紫野は、文字通り紫草が生えている野という意味で、古代の紫という色は最も高貴な色とされ、その色の染料が取れる草が紫草であることから、古代の皇室や貴族が猟をする禁野とされている場所となる。
京都における禅寺では、”臨済禅と鎌倉五山“に対応するものとして室町時代に作られた京都五山“第一位を建長寺(鎌倉)と南禅寺(京都)、第二位を円覚寺(鎌倉)と天龍寺(京都)、第三位を寿福寺(鎌倉)、第四位を建仁寺(京都)、第五位を東福寺(京都)とし、準五山に浄智寺(鎌倉)”がある。
京都における臨済禅の大本山は、建仁寺でこれは”臨済禅と鎌倉五山“ににも述べているが、鎌倉二代将軍源頼家の発願で作られたもので、開祖は日本臨済宗の祖栄西となる。地元京都の人にはケンネジさんと呼ばれて、栄西が中国の宋から初めてお茶の種をもたらして茶を広めた場所でもあり「ここはケンネジさんの茶畑どした」などと言われる時がある。
次に著名な寺は南禅寺。東山の一峰大文字山の西麓にある。芝居の石川五右衛門で有名な山門(石川五右衛門が満開の桜を眺めて「絶景かな、絶景かな」という歌舞伎の楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」)がある。
南禅寺も鎌倉末から建てられ始めた禅苑で、南禅寺の従持である総長は、全国的な規模で広く求められたため鎌倉から室町にかけては名僧知識が多かったらしい。また、秋の紅葉が見事なことでも有名である。
天龍寺は、洛中から離れて、嵯峨野にある。北朝を擁立した足利尊氏が南朝の後醍醐天皇の冥福を祈るために建てたもので、室町時代の官立の寺となる。そのため「天龍寺の武家づら」と呼ばれた。建立については「天龍寺船」と呼ばれる対中国の官許貿易で得た金で賄われた。天龍寺船は、鎌倉の元寇によって途絶えていた元との間の通商を開いた貿易船として歴史的にも重要な位置付けとなる。
東福寺は京都駅の東側にある東山の南の麓にある。十三世紀の鎌倉時代に開基され、珍しく公家の保護を受けた禅の大本山となる。「東福寺の伽藍ずら」といわれたように、建造物が立派で、特に十四、五世紀に建てられた重曹入母屋造の三門が重厚となる。
また南北朝時代に建てられて、豊臣秀頼の寄進で架け替えられた、偃月橋、通天橋、それに臥雲橋という三つの橋廊があり、紅葉の季節には美しい景勝を奏でている。
これらの寺と比べた大徳寺の特徴は、大燈国師以来の厳しい禅風を守るべく、できるだけ世塵から超越しているところにある。その中で俗権と関わりを持ったのは、茶を通じてのみで、村田珠光、千利休以来、茶道の本山として知られてきたため「大徳寺の茶ずら」と呼ばれていた。
大徳寺について述べられている話の中でまず登場するのが、大正〜昭和のダダイストであり詩人である高橋新吉となる。信吉は若い頃ダダの詩人と呼ばれたが、その後臨済禅と詩を結びつけた活動を行っている。
ダダイスムは、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことで、ダダイズム、ダダ主義あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされたニヒリズムを根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とするものとなる。著名な作品として例えばマルセル・デュシャンの泉がある。
また”人工無脳が語る禅とブッダぼっど“で述べたジェームス・ジョイスによるメタ文学もその範疇に入る。
これに対して後期の新吉の詩は以下のように禅の世界をどっぷりと表している。
「留守と言へ、ここには誰もおらぬと言へ、五億年経ったら帰ってくる」
この詩は禅の空とか真如とかいうものを的確に表しているものとなる。
これに近い言葉として新吉の挙げたものに大燈国師による「億劫須臾(おくこうしゅゆ)」がある。これは億劫(宇宙的なほど限りなく長い時間)も須臾(本の寸刻)もともにものの両義性にあり、二人対峙している情景を考えたとき、双方が法(真理)の中に溶けていれば、どれだけ離れていてもいつも会っているのと同じとなる(仏教の世界では、生身の釈迦は二千年前に死んでいるが、真理として生きており、今生で生きている人がもし真理を得られれば、しばらくも釈迦と離れることはない)ということを言っている。
大徳寺から出た僧侶のなかに一休宗純がいる。
ある年代以上の日本人にとってはアニメの「一休さん」で有名だが、実際の一休宗純はアニメのような可愛い顔/性格ではなく上記のようにかなり癖のある人物であったらしい。そもそも一休が現在のような形で有名となったのは、江戸時代初期に刊行された著者不明の「一休咄(ばなし)」四巻によるもので頓智ばなしの主人公として愛されたものとなる。
実際の一休は後小松天皇のご落胤と言われており、母親も公家の出の名家の出身だったのが六歳で寺に入り、十三歳で前述した建仁寺に通っていたが、そこにいた僧侶たちがいかに名門の出であるかを言い合っていたのを聞き厭世に陥り、不安と絶望で湖水に身を投じて自殺しようとしたらしい。
その後苛烈な禅風で有名な華叟宗曇(かそうそうどん)に師事し、華叟からもらった考案を解悟して一休という道号を与えられる。さらに二十七歳の時に、坐禅をしていて闇夜の湖に啼くカラスの声を聞いて大悟し、華叟にその旨を告げると「それは羅漢(小乗の覚者)の境地で、少なくとも作家の悟りではない」と言われる。これは自分一個の利己的な解脱であって他者に光明を与えるものでないということで、それに対して一休は即座に「私は羅漢で十分です」と答えたことで、華叟は一休の大悟を認めたという逸話がある。
その後一休は自らのことを「風顚(ふうてん)大妖怪」と自称し女色や少年愛まで進み、自由自在の人生を歩みながらも、大徳寺の住持になる。さらに能の始祖である金春禅竹や世阿弥、茶道の始祖である村田珠光等の当時の文化の最先端とも言える人々と交流を深め、中世芸道の勃興期に、かれらの芸を思想的象徴性にまで高めさせることに強い影響を与えたらしい。
一休は晩年京都府京田辺市にある酬恩庵に住まい87歳のときにマラリアにかかり死亡する。臨終の際の言葉は「死にとうない」であったと伝わっている。
次回は鳶の頭や木場の筏師、落語などから江戸時代を生きた人々を訪ねる深川・本所界隈の旅となる。
コメント
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