街道をゆく 本所・深川界隈

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第36巻本所・深川界隈

前回の旅は、”大乗仏教と涅槃経と禅の教え“や”禅的生活“等で述べている京都府京都市北区紫野にある大徳寺を中心としたものであった。今回は鳶の頭木場の筏師落語などから江戸時代を生きた人々を訪ねる深川本所界隈の旅となる。

街道をゆく 本所・深川界隈

今回は旅は深川から、鳶の頭やかつての川並(木場の筏師)に会い、江戸の昔から侠気に生きてきた人々に思いを馳せる。本所では吉良上野介の屋敷跡や勝海舟の生地を訪ね、また本所割下水の界隈に住んだ三遊亭円楽河竹黙阿弥のことを考え、さらに船で隅田川下り、川から町や橋を眺めた後、最後は両国回向院芥川龍之介の小説を思い浮かべる。

深川江戸時代には材木問屋色町として栄えていた。深川ではそこを利用する木場で働く男たちの気っぷが重んじられる風にそまり、そこにいる女たちも、侠気(きょうき)を誇るようになり「辰巳芸者」などと呼ばれて、当時は羽織は男しか着ないものであったのを、辰巳芸者はそれを着て”羽織芸者“とも呼ばれていたらしい。

これは一種の男装で、またその気風も勇肌であり、侠がなまった言葉である「きゃん」と呼ばれていた。さらにこれに接頭語の”お”をつけて「おきゃん」とも呼ばれていた。この「おきゃん」という表現は昭和の時代にも生きていて、ある程度古い人には通じる言葉となる。なお、これに対応する男を表す言葉は「いなせ」となる。

この”おきゃん”という言葉は夏目漱石の”坊ちゃん“にも出ていて、江戸っ子の”坊ちゃん”が、伊予松山という”大田舎”で悪戦苦闘するはなしながら、教頭の赤シャツらのあこがれる”マドンナ”嬢が「マドンナも余っ程気の知れないおきゃんだ」と評している。

ちなみに”街道をゆく 赤坂散歩“で述べた「勇み(いさみ)」と「いなせ」と江戸時代にもてはやされた「粋(いき)」の違いは、「勇み」が威勢がよく、おとこ気のある気風、「いなせ」は粋 で、勇み肌で、さっぱりしているさま、「粋」は気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があることとなる。「勇み」は勢い/態度を示し、「粋」は垢抜けていることで、「いなせ」垢抜けていてしかも勢いがあるということになるだろうか。

深川江戸落語の中心地でもあり、様々な噺(はなし)が作られ、今回の旅の中でも紹介されている。

まず最初に紹介されていたのは「文七元髪結(ぶんしちもとかみゆい)」。この噺に登場するのは江戸っ子職人である佐官の長兵衛となる。彼は当時の江戸っ子のことを表現している”江戸っ子は宵越しのぜには持たない”という言葉を体現している職人で、仕事で得た金をもらっただけ全てばくちや、丘場所や美味いものを食いにいくことで使い果たして、常に素かんぴんになっているおかげで借金を抱え、一人娘が見かねて親に内緒で吉原に行き「親の借金を返すために身を売りたい」と申し出たのを、店の女将がおどろき、長兵衛を読んで説論し、とりあえず借金50両を貸すところから始まる。

長兵衛がその大金を抱え、さらに酒代までもらったのでいっぱいひっかけて家に帰る途中で、橋の上からお店者風の若い男が身を投げようとしている。その若い男は文七という名で、店の用事で売掛金の回収に出かけ、無事に受け取って帰路についたところ、怪しい男に突きあたられ、はっと思って懐を見てみると金がなく、悲嘆にくれて身を投げて死のうとしていたところだった。

そこへ長兵衛がやってきて、力ずくで身投げを止め、事情を聞いて「俺も無くっちゃならねぇ金田が、おめえに出会した(でくわした)のがこっちの災難(せえなん)だから、これをお前に」と断る文七に腹を立てて、財布ぐるみ投げつけてしまう。

ところが、文七が店に帰ると、実は五十両の金は、出先に忘れていただけでちゃんと届けられていた。

店の主人は文七を連れて長兵衛のもとに向かったところ、長兵衛がその女房に「人を助けるなんざ立派な大家の旦那様のすることだよ」と責められ、それに対して長兵衛が「人の命に換(け)えられるけえ」と喧嘩をしていた。そこで五十両を店の主人が返そうとすると「これを私(わっち)がもらうのはきまりが悪いや、一旦この人にやっちまったんだから、この人にやっちまおう、わっちは貧乏人なんで金が性(しょう)に合わねぇんだ」と受け取ろうとしない。

説得の上やっと「どうも旦那、きまりが悪いけれど」としおれながら金を受け取ったところで、店の主人が娘のことを聞いて、吉原に番頭を走らせて、娘にとびきりの衣装を着せた上で、長兵衛の家まで送り、美しくなった娘が現れる。

店の主人は長兵衛に向かって、文七は両親に早くに先立たれているので、文七を子にしてもらって欲しい、ついては娘さんと夫婦にしてあげて欲しいと言い、長兵衛もそれを承知して、二人は夫婦になり主人が暖簾(のれん)を分けて、元結の店を開いたというところで噺は終わる。

その他にも江戸っ子のわるふざけの顛末を述べた「大山詣り」(“富士登山の歴史と登山競走“で述べた山岳信仰の一つで相模国大山(現伊勢原市)を参詣する行為)、女嫌いで通ったお店の番頭が、男嫌いで有名な踊りの師匠に惚れる噺となる「坂東お彦」などがある。

深川は元々隅田川の河口にできた三角洲にすぎず、人の住める場所ではなかったらしい。深川が市街地化されはじめるのは、三代将軍家光(1620年代頃)のころで、富岡八幡宮が建てられた頃から始まる。

この神社は誕生早々から江戸市民の関心を呼び1640年代頃から祭礼が始められ、”深川の祭礼“は江戸市民の楽しみの一つになっていたらしい。

その後、五代将軍綱吉の時代(1680年〜1710年頃)に、江戸と深川を結ぶ橋(大橋永代橋)がかけられて、深川が孤島ではなくなり賑わいを見せていった。さらに富岡八幡宮にのみ許された「勧進相撲」をルーツとする大相撲が盛んになることで、深川の繁栄が広がった。

 

 

 

 

 

 

本所は深川の北側(地図でいうと上)に位置しており、元々は低湿地だったが、深川に比べると市街地化が早く徳川幕府の直属の家来である旗本御家人の屋敷が集まった場所であったらしい。この辺りは”司馬遼太郎と池波正太郎と時代小説“に述べられているような時代小説の舞台になり、また本所には日本人には馴染みの深い「忠臣蔵」の舞台となった吉良上野介の屋敷や、幕末に活躍した勝海舟の屋敷があった場所でもある。

深川・本所の境となる両国には、江戸で頻繁に起きていた火事で亡くなった多くの人々を弔うために作られた回向院がある。その中には様々な歴史上の人物の墓があるが、その中の一つが「鼠小僧次郎吉」の墓となる。鼠小僧次郎吉は1820年頃から10年にわたって九十九カ所の大名屋敷(一般の商人は狙わなかった)に忍び込み、三千両あまり(現在でいうと1億円程度)を盗んでいた盗賊で、後の講談で盗んだ金を貧しい人に分け与えると描かれ、江戸末期には人気を博した「義賊」と呼ばれていた人物となる。

この鼠小僧次郎吉は、モンキーパンチによる「ルパン3世」や北村想による怪人二十面相伝等に描かれている「強気をくじき、弱気を助ける怪盗」の原型になっているものとも言える。

本所深川の旅は、この後隅田川の橋(築地大橋勝鬨橋佃大橋中央大橋永代橋隅田川大橋新大橋清洲橋両国橋蔵前橋厩橋駒形橋吾妻橋言問橋桜橋と15個ある)を巡って終わる。

東京は様々な歴史と文化が詰まった街となる。

次回は近代化を急ぐ明治期の日本において、欧米文明を受け入れ地方へ配る「配電盤」の役割を担い、さらに日本最初の大学が置かれた街、本郷について述べ、夏目漱石森鴎外樋口一葉等の、この街に生活した明治の文豪について述べる。

コメント

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