古典を読み返すことの意義
「古典」とは、文学や思想、芸術などの分野において、その分野の代表的な作品や著名な作品、あるいは長年にわたって多くの人々に読まれ、愛され続けてきた作品を指す。古典的な作品は、その分野の歴史や文化、価値観、哲学などを反映しており、それが多くの人々に受け入れられてきたことから、今日でも多くの人々に読まれ、研究され続けている。
古典的な作品は、その時代や文化、国の背景に合わせた独自のスタイルや表現方法を持っており、それらを通じて当時の社会情勢や人々の思想、価値観を知ることができる。また、その時代の人々が直面した問題や課題に対して提起された答えや解決法を示している場合があり、現代社会においても参考になることが多々ある。
更に、古典的な作品を読むことで、人間の普遍的な問いや課題に対する考え方や解決法を知ることができ、自己啓発や人生観の向上にも役立つこともある。そのため、古典的な作品は、文学や思想、芸術などの分野において重要な位置を占めています。
それら古典を読み返すことの意義をまとめると以下のようになる。
- 新たな発見: 古典を読み返すことで、初めて気づかなかった細かなディテールや、重要な示唆を得ることができる。また、新しい経験や知識を持って再読することで、新たな発見が得られることもある。
- 視点の変化: 時間の経過や、自分自身の経験や知識の増加によって、古典を読んだ時の感想や解釈が変わることがある。それらを読み返すことで、新たな視点や理解が得られる。
- 意味の深化: 古典は、多くの場合、複雑な思想や哲学的な問いを扱っている。これらを読み返すことで、より深い理解や洞察を得ることができる。
- 文学的価値の再認識: 古典には、時代を超えて、多くの人々に愛され続けている理由がある。古典を読み返すことで、その中にある文学的な価値や美しさを再認識することができる。
- 自己の成長の確認: 古典は、人間の普遍的な問いに対する答えを提供している。古典を読み返すことで、自分自身の成長や、人生に対する見方が変化していることを確認することもできる。
古典を読み返すことには多くの意義があり、自分自身の成長や理解力を高めることができる。ここでは以下に示すようなさまざまな古典について紹介している。
さまざまな古典
「菜根譚」には、「菜根」という単語がタイトルに使われていることからもわかるように、謙虚さや地道な努力を称揚する思想が顕著に表れている。「菜根譚」の物語の中では、ささいな出来事や小さな行為が、後々まで大きな影響を与えることが描かれており、それらにより広く一般的な観念として、些細なことでも謙虚であることや、自分自身を改善しようとする努力が大切であることを示している。「呻吟語」も「菜根譚」と同様に、乗り越えたい壁が現れたときに、それらを乗り越えられる言葉が多く収録されている。
和歌は、日本の古典文学において非常に重要な位置を占める詩の形式であり、日本語の美を象徴し、自然や人間の感情を簡潔でありながらも深い表現で捉え、日本語の持つ音韻やリズムを最大限に活かした芸術作品となっている。今回はそれら勅撰歌集について述べてみたいと思う。代表的な勅撰和歌としては以下のようなものがある。
俳句は元々連歌から始まったことから一人で世界観を作り上げる小説とは異なり、「読まれる」ことが前提のコンテンツとなる。俳句の「詠み方(作り方)」により、さまざまなコミュニケーションのバリエーションが生じる。これは主に、俳句においての音とリズムつまり韻律や、短い音数の中で句中の主体を取り巻く状況や心情、興味の対象等を効率的に示唆する「季語」を用いることで、俳句を読むことの広がりを感じることができるようになることでもある。
“俳句の歴史とコミュニケーションの観点からの俳句の読み“で述べている与謝蕪村の句に春風のつまかへしたり春曙抄(はるかぜの つまかえしたり しゅんしょしょう)というものがある。これは、春風が女性の着物の褄をふわりと優しく吹き返した、と詠みかけて、実は『春抄』の冊子の端を春風がそっと吹き返したという、一瞬の場面転換が鮮やかに詠んだ句となる。
西田幾太郎は、20世紀初頭に活躍し、倫理学、宗教哲学、そして心の哲学に焦点を当てた日本の哲学者となる。西田は、善についての研究を行い、その研究は日本哲学の中でも重要な位置を占めた。西田の善の概念は、近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとしたものになっている。
古代中国の思想書「老子」は、老子という人物によって書かれた書物となるが、この人物が実在したかどうかを疑う説があるほど、その経歴は謎のベールに包まれている。
第二十一章は、天地万物を生み出す「道」のありさまを述べている。「恍」と「惚」という字が出てくるが、「恍惚」という言葉には「心帆奪われてうっとりする様」という意味と、「ぼんやりして曖昧」という意味があり、この場合には後者の意味で使われている。すべての始まりである「道」の実態は明らかでないが、そこには確かな「なにか」があると言っている。
「論語」というのは、今を坂述べること二千五百年ほど前、中国の春秋という時代を生きた「孔子」の言葉を集めた”語録”となる。「論語」を読む場合には、「人生」とか「家庭」とか「社会」とか、任意のテーマをせって死してそれに沿って並べ替えを行うことで、孔子の言っていることが整理されて頭に入りやすくなる。これは「論語」はただ道徳的なことを教える本ではなく、人間が生きていく上で必要なあらゆる点に言及した、総合的な”人間学”に他ならないからである。
荘子は今から約二千三百年前、中国の戦国時代中期に成立したとされる思想書となる。著者の名前も荘子(荘周(そうしゅう))だが、この書と彼とその弟子たちが書き継いだものを一つにまとめたものとなる。歴史になょ残す思想家たちを見てみると、孔子も釈迦もソクラテスも、自著を残していない。その思想を弟子たちが書き残したことで師匠の名前が残ったのだが、「荘子」の場合は明らかに荘子自身も書いており、師匠と弟子の合作という珍しいスタイルの本になっている。
「荘子」は、一切をあるがまま受け入れるところに真の自由が存在するという思想を、多くの寓話を用いながら説いている。「心はいかにして自由になれるのか」 その思想は、のちの中国仏教、すなわち禅の形成に大きな影響を与えた。
- 自由意志とAI技術と荘子の自由
自由意志のソフト決定論的な考え方を人工知能技術の活用という観点で考えた時、機械が人の考えうる選択肢を超えた「他のようにもすることができる」選択肢を導き出し、それらの中で、単純に機械でも実現できるアルゴリズムではなく、”因果推論と強いAIの実現に向けた考察“に述べているような深い想像力とそれに基づいたモデルによるアルゴリズムで問題を解くことができれば、機械にはできない役割を人間が担うことができると思われる。
本ブログでは”問題解決手法と思考法および実験計画“において、様々な問題解決手法についてのべている。その中で、”KPI KGI OKRについて“で問題解決を行うための定量化の手法について述べていたり、”具象と抽象 – 自然言語のセマティクスと説明“で述べているような抽象化のステップを用いることでその課題の本質的な問題は何かを抽出している。
そのような問題解決のアプローチは実は今から約二千五百年前に、孫子と呼ばれる人物によってまとめられていた。今回は”NHK100分de名著老子x孫子”をベースに孫子とは何かについて述べる。兵法「孫子」が生まれたのは、今から約二千五百年前、春秋時代の中国となる。
孫子の考え方は、現代の問題解決の様々なアプローチの根源であると考えられる。題材を戦争においてはいるが、それを問題解決というものに置き換えると、「手段(戦争)ではなく、目的が大事である」や「問題解決(戦争)を行う前に、様々な観点軸で定量化して検討を行うこと」や「問題解決(戦争)のゴールを明確にしていつ止めるかをはっきりさせる」、「とりあえずやるのではなく、事前計画の段階で八割がたはいけるというくらいの状態にしなければならない、無計画だったり、勝算のない戦いはやってはならない」など、現在のコンサルタントが述べる考え方が随所にちりばめられているものとなる。以下にそれらの孫子の内容について具体的に述べる。
- 古代中国の合理思想 – 管子
管子(かんし)は、古代中国の管仲に仮託して書かれた、法家または道家・雑家の書物であり、管仲の著書だと伝えられているが、篇によって思想や言い回しが異なり著者は複数居るとされる。管子の思想内容は豊富であり、一見雑然としており、成立についても戦国から漢代の長い時期に徐々に完成されたと考えられている。司馬遼太郎はこの管子を読みながら、中国人の思考能力が人類の代表であるかのように輝いていた時代の所産であり、合理主義的な経済政策を主とした作品で、中国文明の合理主義は思想としても、自我の問題でも、紀元前の戦国時代の方が”近代”に近いという奇妙な倒立のかたちをとっていると述べている。
世界は変化しており、その世界に適用される型や秩序も、何も考えずに運用するものではなく、世界の変化に合わせて変えていく必要がある。そのためには、秩序や型のそもそもの意味を考える必要があり、さらに意味を考える上では”情報としての生命 – 目的と意味“でも述べているように目的を考えることが重要となる。混沌とした世界を整理する為の秩序とそれを変えていく自由共に重要な要素となるものと思われる。
司馬遼太郎の”街道をゆく 台湾紀行”では、台北市の歩道のでこぼこに対して、歩道という公共のものであるのに対して、その歩道の奥にある商店ごとの”私”が優り、自店の都合で店頭の歩道を盛り上げたり、そのままにしているため、道がでこぼこになっていると述べている。
マルクス・アウレリウスは、古代ローマ時代の哲学者かつ皇帝で、ストア派哲学の最後の大師の一人でもあり、著書『自省録』で知られている。 彼の哲学は、自己管理、倫理、内省、自制心、そして道徳的な自己改善に焦点を当てていて、哲学を実践することが人生の意味を見出すための重要な手段であると主張していた。 彼の思想は、特にスピリチュアルな分野で影響を与えており、自己啓発やマインドフルネスの分野でもしばしば引用されている。
「アラン」とは、フランスの哲学者エミール=オーギュスト・シャルティエ(1868年 – 1951年)のペンネームであり、彼の著書『幸福論』は、人間の幸福についての洞察と助言を提供するエッセイ集として知られているものとなる。この幸福論の中のアランの言葉に「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」というものがある。幸福な生き方とは、禅の世界とも通じるものがある。
『方丈記』(ほうじょうき)は、鎌倉時代に書かれた日本の随筆であり、禅宗の僧侶である鴨長明によって書かれたもので、作品は、一人の人間が自然と共存する生活を描き、禅宗の教えや仏教的思想が含まれたものとなる。ここでは、この方丈記についてNHK100分de名著「方丈記」をベースに述べる。
『イェール大学の若い読者のための文学史』(A Little History of Literature)は、イギリスの作家であり、文学者であるジョン・サザーランド(John Sutherland)によって書かれた本で、文学に興味を持ち始めた若い読者や文学の初心者を対象に、文学の歴史や主要な作家、作品について分かりやすく紹介したものとなる。今回は、この本からピックアップした話題について述べたいと思う。
- 論語と算盤
- 善の研究
- 幸福論
キリスト教は、ユダヤ教の伝統やローマ帝国の文化の中で生まれ、紀元1世紀に始まり、イエス・キリストを中心とした宗教的な信仰と教えを持つ宗教となる。キリスト教の中心的な信念は、イエス・キリストが神の子であり、人間の救い主であるということで、キリスト教の信者は、イエス・キリストの死と復活によって罪からの救いを得ると信じている。
ここでは旧約聖書、新約聖書、アウグスティヌスの『告白』等の古い書物と、近年出版されたキリスト教関連の書物について紹介している。
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