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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回の旅は青森の旅であった。今回の旅は、京都西部の自然豊かな名所である嵯峨野への旅となる。嵯峨野の旅は、古くは「絶壑ノ間ニ孤立ス」と表現された山峡の水尾から始まり、はるか昔にこの地にたどり着いた清和天皇に触れ、天皇を祀るお社を護持し続ける里人の心遣いに鳥目する。嵐山の渡月橋では、古代山城国(京都)に定住し、土木技術によっ田野を切り拓いたと言われる渡来系士族の秦氏ついて述べている。次に天龍寺を訪れ、天龍寺塔頭の知恩院で嵯峨名物の湯豆腐を食べながら、豆腐の起源について述べ旅を終えている。旅の目的地は水尾から、水尾は山中の村であり、古くは「絶壑(ぜつがく)ノ間ニ孤立ス」と表現された場所で、絶壑とは、深く切り立った谷ということらしい。地図的には、水尾は、京都と”街道をゆく – 丹波篠山街道“で述べた丹波の国の境にある愛宕山の京都側の山腹にある。古い日本語では山腹の隆起を「を(WO)」と呼び、尾か雄の字を当てる。よって山裾が多い京都では「を」のつく地名が多い。例えば、高雄、槇尾(まきのお)、栂尾(とがのお)などになる。
水尾は、はるか眼下に”絶壑”をうがって渓流が流れている「を」であるためそのような地名になったものと司馬遼太郎は想像している。
渓流が水尾を過ぎると、人煙のない山中を走り、やがて嵯峨野観光トロッコ鉄道が走る保津川に合流する。
さらに川を下っていくと、嵐山の山麓にある船でしかアクセスできないリゾートホテルとして有名な嵐山星野リゾートの脇を通り
観光名所としても有名な渡月橋に至る。
渡月橋は、最初に架けられたのが承和年間(834 – 848)で今から1500年ほど前、その後何度も架け替えられ、現在の橋は昭和9年(1934年)に建てられたものとなる。名前の由来は、亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられたものとなる。本体は鉄筋コンクリートで作られているが、景観との調和を図るため意匠は木製の旧橋を受け継いでおり、非常に美しい橋となっている。
ここから川の名前は桂川となり、さらに宇治川、木津川と合流して淀川となり大阪湾に流れ込んでいく。
話を水尾に戻す。水尾に関連のあった人物として、平安初期の天皇である清和天皇(850〜880)がいる。清和天皇は31年の天寿しかもたなかったが、幼少で即石18年在位して、27歳でその子に位を譲り、その後僧になって水尾にかくれ、ほどなく崩御している。
清和天皇自体は大きな功績が残しているわけではないが名は大きく残っている。それは、その孫にあたる六孫王(りくそんおう)が臣籍に入って源経基(みなもとのつねもと)を名乗り、経基の子の満仲(みつなか)が摂津多田荘に拠って強力な武士団の棟梁になり、そのはるかな後裔である源氏が「清和源氏」を名乗って、ついに源頼朝が鎌倉幕府を起こして日本史を一変させるという歴史的な一族の始祖であるからである。
水尾に向かうために、嵐山の渡月橋近くで待ち合わせし車で愛宕道を水尾に向かい、嵯峨鳥居本に着く。嵯峨鳥居本は、古くは「化野(あだしの)」と呼ばれ、京の人々の埋葬の地であった。現在の町並みは愛宕神社の鳥居前町として発展したもので、化野念仏寺を境に瓦屋根の町家風民家が並ぶ下地区と茅葺きの農家が多い上地区と二つの風景が共存し、1979年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された地区となる。
鳥居本から車を降り、鳥居の手前の道を下六丁峠に向かう。この山道は小倉山の山中であり、この東麓の嵯峨野側に山荘を営んだのが、「小倉百人一首」を選んだ歌人藤原定家であるらしい。
山麓をさらに登っていくと山陰本線保津峡駅が見えてくる。
保津峡駅は、峡谷の只中に現れる前後をトンネルに挟まれた橋上駅であり、鉄道ファンは一度は訪れてみたい秘境の駅となっている。
保津峡駅をさらに過ぎると、水尾に着く。水尾には、そこで生涯を終えた清和天皇を祀った清和天皇社がひっそりと佇んでいる。
清和天皇の時代は、その後平安時代末期まで続いた藤原氏による摂関政治が始まった時代であり、「貞観の治」と呼ばれる安定した政治の時代でもあったとのこと。清和天皇は死ぬ前は僧侶になっており、自分の死後に際しても過剰な祭礼は行わないように遺言されていたため、この清和天皇社も、地元の村人が作った質素なものとなる。
水尾で清和天皇に思いを馳せた後、司馬遼太郎は渡月橋に戻り、筏も通さない川であった保津川の岩を砕いて舟が通るようにし、丹波の木材を水路で山城(京都)に運ぶようにした角倉了以について述べている。
角倉了以の木造は嵐山の一峰にある大悲閣(寺号は千光寺)にアンチされ、保津川を見下ろしている。
大悲閣千光寺は嵐山の(紅葉の)穴場であり、街道をゆくの中でもなかなか登山口まで辿りくことができない場所となっている。
角倉了以は保津川の治水工事をことごとく私財を投じて行なっており、驚くべき財力を持っていたことになる。これらの富は海外貿易(対明貿易)によって得られたもので、そのような文脈において、角倉家と嵯峨の天龍寺の縁は非常に深いものであったらしい。
“司馬遼太郎の街道をゆく 京都の名寺と大徳寺散歩 ダダと禅と一休“でも述べている天龍寺は、臨済宗の京都五山の一つであり、寺ながらも別に対明貿易商という一面ももっていた。それらに対して、角倉一族は、資本も出し、利潤の分配にもあずかっていたらしい。
この大悲閣千光寺の登り口には芭蕉の句碑がある。
花の山二町のぼれば大悲閣
旅の終わりは、天龍寺を開山した無窓礎石と天龍寺の名物である湯豆腐について述べられ締め括られている。
無窓礎石は鎌倉末期から室町時代にかけの臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人となる。禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。直義との協議のもと元に天龍寺船を派遣してその儲けによって造営費用を捻出するなど、商売人としての才覚もあった。さらに、五山文学の有力漢詩人であり、和歌においても勅撰和歌集に11首が入集するなど、文学史上でも足跡を残している。
豆腐は古代から日本にある食べ物で、大豆から作った豆乳に、ニガリと呼ばれる海水を煮詰めて塩を作った後に残る汁を加えて凝固剤としたものから作られている。
昭和の中頃までは、このニガリを製塩法から作っていたが、その後 ニガリもその主成分である塩化マグネシウムを化学的に合成すれば良いという時代となり、それまでの様々な土地土地で特徴のある豆腐が作られていたものが、徐々に全国同じものとなっていったらしい。ちなみに”街道をゆく 檮原街道 – 高知と四国山脈の旅“で述べた高知の豆腐は、非常に硬く縄でからけで持ち帰ることができたことから”縄からげ”の豆腐と呼ばれていたらしい。
次回の旅は仙台・石巻となる。
コメント
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