不風流処也風流 – 風流ならざるところもまた風流

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「不風流処也風流」風流ならざるところもまた風流

「不風流処也風流」は、「風流ならざるところもまた風流」という読みで、禅の公案集『碧巌録』にある言葉のひとつとなる。「風流」という言葉の発端がこれらしい。

臨済宗福聚寺住職で芥川賞作家の玄侑宗久氏は、著書「禅的生活」の「ゆらぎをたのしむ」という章の中で、「風流」とは風にゆれる柳のような「ゆらぎ」であり、このゆらぎを楽しむ能力こそが、人間だけの最高度な楽しみであると述べている。

「ゆらぎ」とは、予測できない動きであり、人はコントロールできないものに対して、「不足」や「苦痛」などを感じる場合がある。このようなコントロールできないものを把握できるようにした理論が”可能世界と論理学と確率と人工知能と“でも述べている確率の理論となる。

このような揺らぎを愛でる心は「天命を生かした人生を歩んで毎日が楽しくて仕方ないんだろうと思うような人も、悩み、葛藤、自問自答といった人間らしい側面はあって、人生はこうしたらこうなるという単純なものではない、という不確実性が、もしかすると生きがいにつながってるのじゃないだろうか」という考え方にもつながる。

すばらしい芸術が生まれるのも、美しいものを見聞きすることも、不確実性な人生ゆえであり、それを楽しむという思いが「不風流処也風流」という言葉となって表されている。

ゆらぎとエントロピー

1977年にノーベル化学賞を受賞したプリゴジンは彼が組み上げた「散逸構造論」の中で、熱力学の第二法則であるエントロピーの法則に意義を唱えている。

エントロピーの法則は、例えば水に砂糖を入れた場合に砂糖の分子がどんどん均一に拡散し、やがて平衡状態に落ち着くように、新たなエネルギーが加わらない限りあらゆる物質は秩序から無秩序へと移行していく、言い換えると無秩序率が増大していくというものだが、プリゴジンは、わずかな確率ながら、自然現象の中にはエントロピーの増大(無秩序率の拡大)に逆らって再結晶化(秩序化)する分子運動もあるのではないかと考え、その可能性のことを「ゆらぎ」と呼んだ。

我々人間が生まれてから死ぬまではエントロピーの法則に従い、老いもその法則で説明がつくが、受精から誕生までや、宇宙に星が生まれる過程、あるいは芸術が生まれる瞬間など、様々な創造のメカニズムは、秩序化すなわち負のエントロピーとも言える。物を作り出すのに必要なこのようなゆらぎをはらんだシステムの構造が「散逸構造」であるとも言える。

エントロピーは「平衡に向かう力」であり、プリゴジンのいう「ゆらぎ」とは「非平衡に向かう力」と言える。心理学の世界では、人が安楽を求めても、この世の中に絶対の安楽はなく、それがあるとしたらエントロピーがMaxの状態である死の状態だけで、それは生きるという「非平衡に向かう力」と対立すると言われている。

「ゆらぎ」を楽しむ「風流」とというスタンスは、「非平衡に向かう」「創造」の世界に足を踏み入れるということであり、不慣れなことを楽しむという生き方は、生きる(=創る)ための原動力となるということができる。

ゆらぎを楽しむための条件

「ゆらぎ」を考える時、そのゆらぎの幅は重要なファクターとなる。そもそもゆらぎとは、ほんのわずかな幅の動きを指し、大幅に変化する状態を指す物ではない。「平衡から逸脱」が大きくなるとそれはもはや「ゆらぎ」ではなく「動き」となる。頻繁な動きは人を疲労させ、前述のように最終的な答えのない平穏への渇望を生み出してしまう。

では、楽しむことができる「ゆらぎ」はどのようにしたら得ることができるのか?禅の世界では、まずまったくゆらがない「志」と腰のすわった生活・仕事、それに名利にも八嵐にも揺れない習慣的自己を考え、それに対する僅かな「ゆらぎ」こそが風流につながる「ゆらぎ」であると述べている。つまり滅多に笑わない人が笑うのも風流、めったに泣かない人が泣くのも風流。滅多に怒らない人が怒るのも、転ばない人が転ぶのも、怒ったり転んだりした人が「風流」と思うべきものだと言うことができる。

この時、中心にある揺らがない部分は「志」と呼ばれ、腰のすわった生活・仕事である方が生きる上での充実感があるというのが禅の世界のもう一つの極意となる。前の求めている悟りの境地はある意味、全体的な安静の世界と見られているが、そこで止まることは真のゴールではなく、そこから「ゆらぎ」のある世界に戻っていくことが”人工無脳が語る禅とブッダぼっど“での”賢者と十牛図と悟りと意味”にも述べられている。この「ゆらぎ」の世界を楽しむということは”瞑想と悟り(気づき)と問題解決“でも述べている世界を観察するという行為にもつながる。

ゆらぎと日本のアート

松江城主であり、江戸後期の大名茶人として有名な松平不味公は、「足ることを知れば、お茶を立てて不足こそ楽しみとなれ」と述べている。これは、禅の「知足(足ることを知る)」である無限の欲望に囚われず満足することを覚えるというスタンスだけではなく、足りないことを楽しむことが茶の道である、ということを述べたものだと言われている。

これは茶道の世界では、”明治のアート フェノロサと岡倉天心と茶の本“でも述べたように、「不足」や「歪み」や「不完全さ」や「壊れやすさ」などを愛するという日本独特の美的意識につながり、さらにそれらは”ゆらぎの美 -日本画と和様の書について“でも述べた日本画や和様の書での揺らぎの美や、”街道をゆく 越前の諸道(福井)“でも述べている日本独自の侘び寂びの美意識による「土くれ」的な器を愛する心とも通じていく。

「不足」や「歪み」や「不完全さ」や「壊れやすさ」あるいは「土くれ」は、西洋的な観点から見ると見た目が装飾的でもなく、美しいというものからも外れることもある。日本の美は「不風流処也風流」を価値観のベースに持ち、風流であるべきところが、風流でないところにある、つまり見た目や形式だけでなく、本質や内面にも風流を持つべきであるという概念を含めた美をもちめているものとなる。

実際に「風流」は、優雅で洗練された趣や美しさを指すもので、芸術や文化、風習などに現れる日本独特の美意識を表現した言葉であり、この言葉は”街道をゆく 堺・紀州街道“でも述べられているように、室町時代の後期頃から近畿地方の豪商の間で流行った表現で、現在では、和の精神や情緒を表現する重要な概念として日本文化に深く根付いているものとなっている。

つまり、「不風流処也風流」は、見かけだけの外面的な美しさや風流さを追求するのではなく、内面や深層にある真の風流や美を大切にするべきであり、物事を深く見つめ、その本質や背後にある情緒や哲学を理解し、表面的な見た目だけでなく、内面的な価値を重視するということを言っているのである。

コメント

  1. […] サーフィンが上達するコツは、なるべく長い時間を海にで過ごし多くの波と向き合う事だと思う。雑誌で読んだあるサーファーの言葉に「経験してみなければ何もわからない。頭でかんがえているだけじゃだめさ」とあったが、これは“冷暖自知“で述べている仏教での冷暖自知や“不風流処也風流 – 風流ならざるところもまた風流“で述べている禅での不風流処也風流にも通じる。過去の知見をうまく領してその場にて型をこなし、揺らぎを楽しむことはすべての基本なのだろう。 […]

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  4. […] の日本文化を作り出すと宣言した。ここから生み出されたのが”不風流処也風流 – 風流ならざるところもまた風流“でも述べている「わび・さび」と呼ばれる揺らぎの美となる。 […]

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