街道をゆく 堺・紀州街道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第四巻 堺・紀州街道

前回北海道の諸道について述べた。今回は紀州街道について述べる。

堺・紀州街道

今回は大阪から南下して関西国際空港に向かう途中、電車だと南海電鉄堺駅あるいは堺東駅で行けるとそこから和歌山に抜ける紀州街道界隈となる。

地図を見てもわかるとおり、仁徳天皇陵をはじめとした古墳がある町でもある。

仁徳天皇陵をはじめとした古墳は、上空からの写真ではよくわかるが、地上で見ると木が生い茂った森にしか見えない場所となる。

旅のスタートは老舗の蕎麦屋であるちくまを訪ねて

そばを食べようとするがあいにく休みで食べられず、堺が商業都市として栄えた時代に作られた禅寺である南禅寺に向かう。

ちなみに堺東駅から歩いて数分の場所にある中華そばムタヒロ

にぼしラーメンも絶品である。

ここで街道の旅に戻る。戦国時代は、織田信長に征服されるまでは独自の自治権を保有し町全体が堀で囲まれた東洋の中でもトップクラスの自由商業都市であった。

堺の豪商で有名なのは今井宗久納屋助左衛門等がいる。納屋助左衛門は1978年の大河ドラマ(黄金の日日)の主人公でもあり、別名呂宋(るそん)助左衛門とも呼ばれ、フィリピンカンボジア日本人町を作り、当時珍しい茶器を集めるのが大名の間に流行っていたところに目をつけ、現地では一般に使われている陶器(一説では便器)を珍しいものとして豊臣秀吉に売りつけ、そのことがバレて捕まりそうになったところをルソン(フィリピンの日本人町)に逃れ、最終的にはカンボジアに渡り、そこで豪商になったというスケールの大きな人物を輩出している。(ちなみに、2016年に放映された「真田丸」でも同じ役者が呂宋助左衛門を演じたことも当時話題となった。)

そのような新進の町堺で流行ったのが現在でもよく使われる「風流」という言葉となる。当時の「風流」の三大中心地は京都奈良で、特に応仁の乱以後京都、奈良は荒れてきて、堺がその中心となってきた。堺には千利休や先述の今井宗久のような茶人が出て、侘び寂びをベースとした風流もあったが、当時流行った「堺から金襴(下写真)を買う」という言葉で表されるようなきらびやかなものも「風流」として捉えられていたらしい。

そのような時代の趨勢に思いを寄せながら、司馬遼太郎一行は、堺が衰退期に入ってから(江戸時代初期)沢庵和尚によって再興された南禅寺へと向かう。

沢庵和尚は、日本の食卓にかかせない食材であるタクワン(大根の漬物)を考案した人物としても有名だが

沢庵和尚は当時の代表的僧として知られ、また、受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けていたらしい。しかしながら、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで自らは一禅僧に過ぎないと述べたり、詩歌を好み沢山の作品を残したりとまさに「風流」を体現していた人物だったらしい。

南宗禅寺での滞在の後は、一行は舟待神社に向かい、神社側の老舗のうどん店である美々卯による。

美々卯では名物の「うどんすき」を食べた後、紀州街道を下ったところで旅は終わる。

次回郡上白川街道越中諸道について述べる。

コメント

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  3. […] その後の安土・桃山時代は、”街道をゆく 堺・紀州街道“で述べている様にアートの主体は財力のある商人に移り、煌びやかな絵画や工芸品が作られていく。 […]

  4. […] 次回は堺・紀州街道について述べる。 […]

  5. […] 、大阪や堺とも交流が盛んになり、商業都市として江戸時代まで栄えていた。また、この今井町は”街道をゆく 堺・紀州街道“でも述べた堺の豪商・今井宗久の出身地でもある。 […]

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