瞑想と悟り(気づき)と問題解決

人工知能技術 機械学習技術 デジタルトランスフォーメーション技術 問題解決と思考法 禅とライフティップ life Tips&雑記 本ブログのナビ
禅と鈴木大拙とマインドフルネス

禅の思想と歴史、大乗仏教、道の思想、キリスト教“で述べているように禅は、悟りを開く事が目的とされた宗教であり、そこで重要とされているものは、これまでの宗教で中心だった仏の世界に対する知識ではなく、日々の修行を通じた悟りとなる。 禅宗における悟りとは「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことで、仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のこととなる。

禅の哲学的な考え方は、言葉や概念に頼らず、直接的な体験や直感を重視するもので、禅では、普遍的な真実は言葉や概念で捉えることができず、言語や概念の限界を超越することが必要であるとされている。禅の目的は、心を静め、直接的な体験を通じて、自己や世界の真実を悟ることであり、言葉や概念を越えた直接的な体験によって、深い洞察や悟りを開くことを目指している。

日本の仏教学者であり、文学博士である鈴木大拙は1952年から1957年まで米国、コロンビア大学に客員教授として滞在、仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。 さらに1957年には『ヴォーグ』『タイム』『ニューヨーカー』で大拙が紹介され、禅ブームとなり、ハワイ大学エール大学ハーバード大学プリンストン大学などでも講義を行なっていった。関連図書としては”はじめての大拙 鈴木大拙 自然のままに生きていく一〇八の言葉“、”禅と日本文化“、”禅”等がある。

2000年代に入るとアメリカでは東洋の思想実践への興味が高まり、アメリカ現代社会に欠けている「『今』への集中」が仏教の思想実践に見られると考えられ、マインドフルネス瞑想が改めて注目されるようになっている。

今日では多くの研究者が、マインドフルネス瞑想とは「気づき」や「ありのままの注意」を重視する「洞察瞑想」であり、ヴィパッサナー瞑想とほぼ同義であるとみなしている。マインドフルネスを実践することで、心理的・身体的健康や良好な人間関係、冷静な意思決定、仕事や学業への集中、全般的な生活の向上などに効果があるとして注目を集めている。

サーチ・インサイド・ユアセルフ

瞑想の理論(サマタ(止)瞑想とヴィパッサナー(観)瞑想)

このような禅の知識があると、瞑想することで、集中してトランス状態に陥り、脱日常の体験をすることが「無我」の状態であり、それこそが「悟り」であると考えがちだが、禅や瞑想の専門家によると「そういう瞑想は、一時的な癒しになっても根本的な悩み解決の手段にならない」と言われており、真のゴールではないとされている。

一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ(止)瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー(観)瞑想とが双修され、この点は南伝仏教(小乗仏教)でも北伝仏教(大乗仏教)でも変わらない。

伝統的に上座部仏教においては、サマタ(止)瞑想を先に修行して、それからヴィパッサナー(観)瞑想へと進むという階梯がとられており、ヴィパッサナー(観)瞑想を行なうためには少なくとも第一禅定(最高で第四禅定)に入っている必要があるとされ、そのためにはサマタ(止)瞑想を行なわねばならないとされていた。

これに対し、最初からヴィパッサナー(観)瞑想のみを中心に修行するという道も、少数派ながら古くから存在しており、これは、ヴィパッサナー(観)瞑想を行うことによって、自然に第一禅定がもたらされるということを目指している。またより重要な問題点として、サマタ(止)瞑想にあまり重点を置きすぎると、それによってもたらされる三昧の快楽に耽ってしまいがちであり、なかなか悟りが開けないという点も指摘されている。ブッダの悟りは、あくまでもヴィパッサナー(観)瞑想によって開かれたとする観点もある。

サマタ(止)瞑想は普通のお寺に住んでいる比丘たちが行う瞑想法で、心を鎮めるものであり、ヴィパッサナー(観)瞑想は止よりずっと高度であり、諸行無常諸法無我一切皆苦という仏教的真理を洞察して、涅槃寂静に達しようとするものであるとされている。これは伝統的に、森林にこもって瞑想に専念する森林僧が行うものと言われている。

マインドフルネスで用いられるヴィパッサナー(観)瞑想は、物事をあるがままに観察するということに重きが置かれているものになる。

ヴィパッサナー(観)瞑想と物事をあるがままに観察するということ

ヴィパッサナー(観)瞑想の特徴は、自分のありのままの状態を、客観的に観察していくことにあり、つまり「何かを見た」「何かがにおった」「何かを聞いた」などの一瞬一瞬の感覚を鋭敏に受け止め「見た」「におった」「聞いた」というように心の中で言語化して確認する(ラベリング)作業を徹底して繰り返すことによって、瞑想中に生じる雑念を追い払うことができるようになるというものとなる。

このときのラベリング、たとえば歩くという行為に対して、右足を動かすと同時に「右」とラベリングぬするのではなく、右足の動きを実感してから、心の中で「右」と確認することが大事になる。またラベリングをするという行為に囚われすぎてしまうと、実際には感じていないものを心で生成してしまうという妄想の世界に入り込んでしまうという危険性があり、 そうではなく「感覚を受け止める」ほうに重きを置き、ラベリングは感覚に気づいた証として行う、つまり「感じる」が9割で、ラベリングが1割程度の感覚ど行うことが良いとされている。

ヴィパッサナー(観)瞑想を実際に行う方法としては「座る瞑想」と「歩く瞑想」があるとされている。座る瞑想は坐禅そのもので、仏教用語では結跏趺坐(けっかふざ)と呼ばれる座り方(「趺」とは足の甲のこと、「結」とは趺を交差させ、「跏」とは反対の足の太ももの上に乗せること。したがって趺を結跏趺して坐ることをいう)が座り観察を行うものとなる。

歩く瞑想は、足の動きを実感しつつ「右」「左」「右」「左」とラベリングするもので、ふらついたり、軸足の感覚の方が強くならないように、足を高く上げすぎず、地面すれすれであるくのが良いとされている。

また、歩く瞑想法は、観察するという観点では、感覚がダイナミックに変化していくというものが坐禅と比べて観察しやすく、初心者向けの瞑想とも言われている。

心を清らかにすることと客観的な観察と問題解決

仏教では、心を浄化することであらゆる苦しみが乗り越えられ、幸せに生きていけると教えている。この心を清らかにするという教えはキリスト教の中にもある考え方となる。仏教の教えでは、清らかな心は、様々な煩悩(身心悩まし煩わせる心のはたらき)をなくしていくこととされている。

煩悩は、様々な身心悩まし煩わせる概念が、脳の中で再構成/関連付けされて、無限に作り上げられているものとも考えられる。仏教では、そのような無限の生成のメカニズムの原因として「苦しみは人の原動力」つまり人は苦しみがあるから逃れようとして次の行動にでるものとしている。さらにそれらは「渇愛」これが欲しい、こうなりたいという想いにより生じているものと定義されている。

これらから逃れるために、観察して清らかな心になることが重要であり、これは例えば「仕事のストレスから逃れ、大好物の熱々のラーメンを食べるとしたとき、舌が感じている刺激に集中してみると、熱々がうまいと感じていたラーメンが、実は舌にダメージを与えているようなことに気づき、自ら自分に苦しみを与えることはやめよう」と考えるようなことであり、今やっていることに意識を集中さらることで、次々と生まれる渇望を滅して、苦しみを低減するとしている。

このような考え方は仕事などでの問題解決のシーンでも適用できる。

仕事で何らかの問題が生じた時、それを解決しようとして、頭の中で様々なことを考える。その時、実際に何が起きたのかをしっかり観察せずに、解決することのみに注力してしまうと、思考を組み立てていく中で、本来のやるべきことからかけ離れ、自分がやりたいことにシフトしてしまい、中々問題解決につながっていかないというケースは多々ある。

それらを客観的に観察(分析)していく手法が”システム思考アプローチとSDGs“で述べているシステム思考や”KPI,KGI,OKRについて(1) 課題の明確化の為の手法“などであり、それらの中ではまず主観を無くして、客観的な観点で課題に対応していくことが重要なことだとされている。

ヴィパッサナー(観)瞑想の手法も、自分のありのままの状態を、客観的に観察していくことは、自分の頭の中で次々と作られる妄想(主観)をなくしていく作業であるともいえる。

主観や想いは生きていく上での原動力となり重要だが、それだけにとらわれると袋小路に陥って苦しみが生じる原因ともなっていく、様々なメソッドを利用した客観力(観察力)の増強が幸せに生きていく為に必要な要素の一つであり、それが心を清らかにするということにもつながっていくのではないだろうか。

コメント

  1. […] 瞑想と悟り(気づき)と問題解決 […]

  2. […] 瞑想と悟り(気づき)と問題解決 […]

  3. […] に集中することで制作される。この周囲の世界に入り、そこでの音を感じ再構成していく行為は、”瞑想と悟り(気づき)と問題解決“で述べている瞑想と気づきの関係にも通じる。 […]

  4. […] この時、中心にある揺らがない部分は「志」と呼ばれ、腰のすわった生活・仕事である方が生きる上での充実感があるというのが禅の世界のもう一つの極意となる。前の求めている悟りの境地はある意味、全体的な安静の世界と見られているが、そこで止まることは真のゴールではなく、そこから「ゆらぎ」のある世界に戻っていくことが”人工無脳が語る禅とブッダぼっど“での”賢者と十牛図と悟りと意味”にも述べられている。この「ゆらぎ」の世界を楽しむということは”瞑想と悟り(気づき)と問題解決“でも述べている世界を観察するという行為にもつながる。 […]

  5. […] また、日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹はコロンビア大学助教授在職中の受賞であり、1950年代には”瞑想と悟り(気づき)と問題解決“でも述べている鈴木大拙が長期滞在し、禅思想の教育、研究を行い、米国における東洋思想の重要な発信拠点ともなっていた。 […]

  6. […] “瞑想と悟り(気づき)と問題解決“でも述べているようにマインドフルネス瞑想や禅のヴィパッサナー瞑想は「気づき」や「ありのままの注意」を重視する「洞察瞑想」であり、集 […]

  7. […] “瞑想と悟り(気づき)と問題解決“でも述べているようにマインドフルネス瞑想や禅のヴィパッサナー瞑想は「気づき」や「ありのままの注意」を重視する「洞察瞑想」であり、集 […]

タイトルとURLをコピーしました