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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回はアイルランド紀行、英国を尋ねる旅であった。今回は引き続きアイルランドを訪ね歩く旅となる。ロンドン、リヴァプールをへて空路ダブリンに入った司馬遼太郎は、まずダブリン市内及び近郊を見て回る。次に、ゴールウェイ、アラン島、ケリー島などを巡りダブリンに戻る。アイルランド島の西端に近いコングの村では、そこで撮影されたジョン・フォード監督の「静かなる男」をもとに、アイルランド人とアイルランド系移民の民族性について考察。アラン諸島では、記録映画「アラン」などを手掛かりに、岩盤だけで土がない過酷な自然の中で生きることについて考える。さらに、ケリー半島、キラーニイ、ケンメアと回りながら、イェイツや小泉八雲を素材に、妖精大国としてのアイルランドに想いをはせる。
アイルランド島に初めて人類が居住したのは、紀元前7500年ごろ旧石器時代であるとされている。その後”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“でも述べているようにケルト系民族が侵入し、それにより鉄器時代が始まる。この時代の王国は僧侶(ドルイド)たちにより支配されており、ドルイドは教育者、科学者、詩人、占い師、法と歴史の担い手として働いていた。紀元元年前後にブリテン島はローマ帝国の支配を受けたが、スコットランドやウェールズ、それにアイルランドにはローマ帝国やゲルマン民族の侵入がなく、ケルト系部族国家が継続し、それぞれの地域はこの頃から次第に独自の歴史性をもって分離していくことになる。
その後、紀元後600年ごろにキリスト教布教がおこなわれ、それまで信仰されていた多神教は駆逐され、ケルトの信仰も変化していく。
9~10世紀は”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“でも述べたバイキングの来寇と後続のノース人が海岸に定住を開始した時期となる。なかでも巨大な街となったのは、ダブリン、ウェックスフォード、コーク、リムリックといった街で、当時のアイルランドは半独立状態のツアサが複数存在し、アイルランド全土統一を目指して各ツアサによる内乱が続いていた。
イングランドによるアイルランドの植民地化は1169年のノルマン人侵攻に始まっている。イングランド王ヘンリー2世がアイルランドを支配下におき、その後スコットランドによる侵攻、ペスト(黒死病)の伝染による都市部に住んでいたイングランド人やノルマン人の減少、イングランドでの薔薇戦争の勃発によりアイルランドにおけるイングランドの影響力はほぼ消失する。
1500年代に入り、イギリスで宗教革命とプロテスタント支配の強化が行われ、イングランドとウェールズ及びスコットランドは、プロテスタンティズムを受け入れたのに対して、アイルランドではカトリックの教義をかたくなに守り続けた。プロテスタントとカトリックの対立は、その後のイングランドによるアイルランド再占領と植民地化による対立を激化させることになる。
アイルランドで有名な宗教的なイベントとして聖パトリックデーがある。
聖パトリックデー(St. Patrick’s Day)は、3月17日に設けられたキリスト教カトリックの祭礼日の一つであり、聖パトリックデーはアイルランドにキリスト教を広めた聖パトリックの命日で、その功績を称え、アイルランドの伝統文化を祝うイベントとなる。宗教的にはイースターやクリスマスほど重要な行事ではないが、アイルランドを始めアイルランド移民の多い国や地域では聖パトリックデーの行事が盛大に開催されており、近年はアイルランドの文化を理解し楽しむ祭りとして世界各地に広がりつつある。このイベントでは街中がアイルランドのシンボルカラーである緑一色に染まる。これはアイルランドがその美しい緑の風景にちなんで、「エメラルドの島」と呼ばれていることに由来している。人々は緑の服を着てテーマカラーである緑の食べ物を食べ、緑のビール(アイルランドと言えば「ギネスビール」の母国でもある)を飲むのが習わしとなる。
聖パトリックデーでは、シャムロック(Shamrock)と呼ばれる三つ葉のクローバーのモチーフが多く使用される。聖パトリックが三位一体について説く際、手に三つ葉を持っていたと伝えられているためで、シャムロックはアイルランドの国花でもある。
その後、1782年から1800年にかけて、アイルランドは限定的な自治権を獲得したが、1798年の反乱鎮圧の後、イングランドはアイルランドの完全な植民地化を完成させる道を急ぎ、1801年にはアイルランド議会が廃止され、アイルランドは連合法のもとグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の構成国となり、完全に英国に併合された。併合により幾分かのカトリック教徒の地位向上政策などが行われたが、経済・貿易の中心がロンドンへと移行したためアイルランド経済は更に停滞した。1840年代にはジャガイモ飢饉が発生、飢餓や移民などにより1840年のピーク時には800万人を数えた人口は1911年に440万人にまで減少した。
1919年から1921年にかけてのアイルランド独立戦争(英愛戦争)、1922年から1923年にかけてのアイルランド内戦を経て、1949年にイギリス連邦から独立する。アイルランド北部にはプロテスタントが集まり、カトリックと対立し紛争が絶えず、騒乱を鎮めるために英軍部隊が北アイルランドに派遣され現地の警察に変わり街の警備につくことになった。さらにIRA、INLA等のテロ組織と英軍が互いに攻撃・テロを繰りかえし、これらの事件による死者は3,000名にも及んだ。そのような分断も1998年のベルファスト合意、イギリス・アイルランド両国の経済が好転し紛争も沈静化していった。
このように政治的不安定と、そもそも痩せた土地による食料不足が原因でアイルランド人は世界に散り、アイルランドを脱出した人の数は120万人とも言われている。これは、現在のアイルランドの人口は500万人、北アイルランドが190万人と比較するとかなりの割合になる。特にアメリカに渡ったアイルランド人は、主に北東部の都市で、下層労働者として糊口をしのぐような生活を強いられ、さらに警察官や消防士など肉体を酷使するような職業にも積極的についていくようになる。
その後アイルランド系移民は政治の世界で大きな発言力を持つようになり、ジョン・F・ケネディや現大統領のジョー・バイデンもアイルランド系のカトリックであり、特に民主党系の支持者となっていく。
司馬遼太郎一行の旅は、このアイルランドの首都ダブリンからスタートする。まずは前述の聖パトリックデーの所以となる聖パトリックの名が付いたアイルランド最大の教会建築である聖パトリック大聖堂を訪れる。
また、ダブリンのメインストリートにあるオコンネル(前述の独立戦争に活躍)像を見て、アイルランドの複雑な歴史に想いを馳せている。
ダブリン郊外のジョイスの砲台では、そこに住んでいたジェイムズ・ジョイスの文学について考察している。ジョイスは小説「ユリシーズ」や「ダブリン市民」、「若き芸術家の肖像」「フェネガンズ・ウェイク」等の短編集を書いた小説家・詩人でもある。
アイルランドは文学の分野で多くの著名な作家を輩出しており、このジェームズ・ジョイス以外にも、ウィリアム・バトラー・イェイツや、サミュエル・ベケット、オスカー・ワイルドなど世界的に有名な作家たちがアイルランド出身となる。特に、アイルランドの詩人たちの作品は感情豊かで美しいものが多く、ケルト文化や自然への愛がよく表現されている。
たそがれは紫水晶から深い更に深い青に変る。 ランプは薄い緑の光で街路樹を満たす。 古風なピアノが曲を奏でる、静かな緩慢な軽快な曲を、彼女は黄色いキイの上にかがみ彼女の頭は此方へ傾く。 内気な考えとかなしい大きな瞳と人々が 聴き入る間をさまよう手と。たそがれは紫水晶の光で更に深い青に変る。 ジェイムズ・ジョイス詩集「室内楽」より
そこからさに司馬遼太郎一行は、芸術が盛んな西海岸の中心都市であるゴルウェイ、
ケルト文化の名残りが多く残り、岩盤に覆われたアラン諸島、ケリー半島などを巡り、
そこで撮影されたジョンフォード監督の「静かなる男」やアラン諸島の記録映画である「アラン」などを手かがりにアイルランド人の生活に思いを寄せる。
アイルランドは映画製作の場所としても人気があり、美しい自然景観や歴史的な建物が映画の舞台として頻繁に使われ、国内外の映画制作に寄与している。また、アイルランド出身の俳優や映画監督も世界的に成功しており、ジョンフォード監督もその中の一人となる。
あらすじとしては「アメリカで活躍していたプロボクサーのショーン(ジョン・ウェイン)が、引退後、故郷アイルランドに帰ってくる。その後ショーンは、近くで生活しているメリー(モーリン・オハラ)と恋仲になる。しかし、ショーンをよく思わないメリーの兄で乱暴者のレッド(ヴィクター・マクラグレン)が、二人の結婚に猛反対し……。」というものとなり、愉快な村人に囲まれながら、一組のカップルが愛を育む様子を追う一作となる。
アイルランドのもう一つの一面は、ケルト文化に根ざした「妖精の国」として知られているものとなる。妖精の語り継がれのある国は世界中にさまざまあるが、アイルランドはそれが強く残っている国の一つであり、この妖精もケルト文化のうちの一つで、ケルト人によって語り継がれてきたものとなる。アイルランドには妖精注意の標識もあるらしい。
そのような文化を背景に、日本の日本の民話・伝説を解釈/再発見していった人物が、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲となる。小泉八雲は日本人と結婚し、様々な日本に関する書物を著した。その中で有名なものとして「怪談」がある。
これは1904年に出版されたもので、八雲の妻である節子から聞いた日本各地に伝わる伝説、幽霊話などを再話し、独自の解釈を加えて情緒豊かな文学作品としてよみがえらせ、17編の怪談を収めた『怪談』と3編のエッセイを収めた『虫界』の2部からなるものとなる。「雪女」や「耳無芳一の話」の話は日本人であれば一度は聞いたことがある怪談になるのではないだろうか。
司馬遼太郎は、さらにアイルランドが産んだ詩人・劇作家であるウィリアム・バトラー・イェイツやオスカー・ワイルドに想いをはせ旅を終える。
ウィリアム・B・イェイツの詩集「アシーンの放浪」から「落葉」The Falling of the Leaves(壺齋散人訳) わたしたちを愛でてくれた長い草の葉に秋が来た 麦わらに巣くうハツカネズミにも秋が来た 頭上のナナカマドの葉は黄色く色づき 野いちごの濡れた葉っぱも黄色くなった ときがわたしたちの愛をひからびさせ わたしたちの心は疲れ果ててしまった 情熱の季節に取り残されてしまう前に別れよう 君のうつむいた額にキスと涙を贈ってあげるから
ウィリアム・B・イェイツの詩集「薔薇」から「妖精の歌」A Faery Song(壺齋散人訳) わしらは陽気な年寄りじゃ 年寄りじゃ 何千年生きたかわからない それほどの年寄りじゃ 生まれて間もないこの子達に 平和と愛を しっとりとした星空の夜を 与えてやろう 生まれて間もない子達たちよ 静かな安らぎが 思い通りに訪れたか 答えてごらん 陽気な年寄りのわしたちに わしたちに 何千歳か見当もつかぬ 年寄りたちに
オスカーワイルドの言葉 定義するということは限定することだ。 一貫性というのは、想像力を欠いた人間の最後のよりどころである。 楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る。次回は越前の諸道、福井県の旅となる。
コメント
[…] 、ニューヨークは移民と開発によって大きく変貌している。特に”街道をゆく アイルランド紀行(2) アイルランド“に述べているようにアイルランドからの移民が大量に流入、更 […]
[…] 前回はアイルランドを行く旅について述べた。今回は越前の諸道、福井県の旅となる。今回の旅は宝慶寺から始まる。宝慶寺は”道元禅師“でも述べたように、道元を慕って中国から来た僧、寂円が開いた寺となる。ひたすら坐禅を組み、道元の禅風を守り通した寂円のことを考えつつ、山深い地にある宝慶寺を訪れ、若い雲水が案内してくれた宝物館で有名な道元と寂円の画像を見る。その日は勝山の老舗旅館に泊まり、翌日は平泉寺を訪れる。中世に法師大名と呼ばれた平泉寺の興亡を思い浮かべつつ境内を歩き、さらに一乗谷の朝倉家の遺跡に赴き、信長に滅ぼされた朝倉義景に想いをいたす。丸岡城や三国港を経て、旅の最後に訪れたのは、越前陶芸村、そこで古越前の技法を見て旅を終える。 […]
[…] 本ブログでは、司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに日本国内、あるいは海外の彼が関心を持って訪れた国について述べている。「街道をゆく」耽羅紀行の中で彼は、行きたい海外の国々として、モンゴル高原と、ピレネー山脈、アイルランド島とハンガリー高原に行きたいと述べている。それらの中で、モンゴル高原に関しては”街道をゆく モンゴル紀行“にて、ピレネー山脈に関しては”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“、”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“、そしてアイルランドに関しては”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“、”街道をゆく アイルランド紀行(2) アイルランド“でそれぞれ訪れ、思いを遂げている。 […]