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街道へ行けなかった国-ハンガリー
本ブログでは、司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに日本国内、あるいは海外の彼が関心を持って訪れた国について述べている。「街道をゆく」耽羅紀行の中で彼は、行きたい海外の国々として、モンゴル高原と、ピレネー山脈、アイルランド島とハンガリー高原に行きたいと述べている。それらの中で、モンゴル高原に関しては”街道をゆく モンゴル紀行“にて、ピレネー山脈に関しては”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“、”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“、そしてアイルランドに関しては”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“、”街道をゆく アイルランド紀行(2) アイルランド“でそれぞれ訪れ、思いを遂げている。
前回は日蓮と久遠寺(山梨県)について述べた。今回は、彼が訪れることができなかったハンガリーについて述べてみたいと思う。ハンガリー
前述の「街道をゆく」耽羅紀行の中で、司馬遼太郎は、ハンガリーに関して以下のように述べられている。
ハンガリーは、言語的には私どもにとって遠からぬ仲間の国である。ウラル・アルタイ語族のうちの ウラル語をもつ民族が、遊牧しつつ西に流れてゆき、ハンガリー平原に達してヨーロッパ文明の中 に紛れ込んでしまった。
wikiによるとハンガリーの概略について以下のように述べられている。
中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、 ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。 基本的には中欧とされるが、歴史的には東欧に分類されたことがある。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地 が広がる。
ハンガリーの国土は美しいカルパティア山脈のふもとに広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。
ハンガリー平原またはハンガリー盆地と呼ばれる国土の中心は、中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、東には大きな支流のティサ川も流れている。
国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖バラトン湖があり、また各地に温泉が湧き出ており、公衆浴場が古くから建設・利用されてきた。
首都ブタペストは、ヨーロッパでも最も美しい街の一つといわれており、様々な歴史的遺物が残されている。
そのため、ハンガリーでは様々な映画の撮影が行われているだけではなく、ローマ、モスクワ、パリ、プラハなど世界の他の都市の替え玉ロケ地としても活用されている。
ハンガリーの歴史
ハンガリーは古代は、パンノニアと呼ばれ、パンノニア族・ダキア人などが住んでいた。紀元前1世紀にはローマに占領され、属州イリュリクムに編入された。
4世紀後半には”シルクロードと平原の歴史“でも述べているフン族(モンゴル系の匈奴と関連がある民族と言われている)が侵入、西暦433年に西ローマ帝国によりパンノニアの支配を認められ、フン族によってハンガリーを主要領土(一部現在のブルガリア・ルーマニアを含む)とする独立国家が初めて誕生した。
10世紀末には、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国(アールパード朝)を建国し、ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展していった。
1400年前後に、オスマン帝国との戦争が続き、1500年代中頃にはオスマン帝国に東南部と中部の2/3を分割支配されるようになる。さらに、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となっていった。
1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、ハンガリーはオーストリアに割譲され、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返されるようになった。
その後、オーストリア=ハンガリー二重帝国の体制下で資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離され、1918年のアスター革命により、ハンガリー人民共和国が成立した。
1930年代後半からはナチス・ドイツと協調するようになり、第二次世界大戦では枢軸国に加わり独ソ戦などで戦って、1945年5月8日の敗戦まで枢軸国として戦い、ナチス・ドイツの崩壊とともに残存していたハンガリー軍部隊も降伏することとなった。
その後、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の衛星国となり、冷戦体制の中では東側の共産圏に属した。1980年代後半になると、ハンガリー民主化運動が開始され、1989年2月には憲法から党の指導性を定めた条項が削除された。5月には西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網(鉄のカーテン)を撤去し、国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。
現在では、NATO、EUに加盟する西側国家の一つとなっている。
次回は台湾の旅について述べる。
コメント
[…] 前回は街道へ行けなかった国ハンガリーについて述べた。今回は、台湾紀行について述べる。「古くは国家なき国」だった台湾は、その後、スペイン、オランダ、日本、そして大陸か […]
[…] その中でも”街道へ行けなかった国-ハンガリー“に述べているハンガリーや、チェコ、スロバキアやポーランドなどは、中東欧とも呼ばれ独自のアートが発展した場所しても知られている。 […]