街道をゆく 中国・雲南のみち

life tips & 雑記 禅と人工知能/機械学習とライフティップ 旅と歴史とスポーツとアート 本ブログのナビ

サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第20巻 中国・蜀と雲南のみち

前回は中国・蜀のみちについて述べた。今回は同じく中国・雲南のみちについて述べる。蜀はかつて劉邦が治め、諸葛孔明が活躍した場所であり、雲南は日本人の祖先のひとつであると司馬遼太郎が考えている「西南夷」が暮らしていた地となる。

今回の旅である成都から昆明へ向かう機上で、古代の雲南省で漢民族とは別の文明圏を形成していた民族「西南夷」を思い、彼らの稲作のこと、また、彼らが日本人の祖先なのではないかと考えを発展させる。そして滇池近くの石寨山遺跡から出土した金印に関して日本とのつながりを思考する。睡美人(西山)にある道観(龍門石窟)を訪れて滇池を上から眺め、昆陽に生まれた大航海家・鄭和を思い、雲南省博物館では、石寨山遺跡から出土した見事な青銅器を見る。また、昆明郊外の少数民族イ族の支族、サメ族の村を訪ねる。滇池を望む大観公園を訪れ、市内で抗日戦線に参戦した老人と市内の茶館で語り合うなどして旅を終える。

前回の成都から空路昆明へ向かう。昆明は中国雲南省の省都であり、765年に南詔の拓東城として歴史に姿を現し、1276年に”街道をゆく モンゴル紀行“で述べている元帝国に征服された後、昆明の名が始まっている。その後14世紀に元朝の後に朱元璋により建国されたに征服され、城壁都市が築かれたのが今日の昆明に続く。

朱元璋 皇帝の貌

地形的には、雲貴高原中部に位置し、市内の海抜は 1,891 メートル、三方を山に囲まれ、南は滇池と呼ばれる大湖に面する。滇池の西は西山森林公園になっている。南東100kmに石林というカルスト地形の景勝地がある。昆明はサバナ気候地帯の緯度にあるが、1,891mの高原に位置するため温帯夏雨気候(Cwb)に属し、年間平均気温は摂氏15度で、冬は温暖で夏も涼しく、中国で最も快適な気候にある都市とされ古来、春城の異称を持つ。1月の平均気温は8.9度、7月の平均気温は20.2度、年降水量は920mmとなる。

雲南の名前の由来は、”街道をゆく 中国・蜀のみち“で述べている成都は一年中雲に覆われており、そのさらに南に存在することから来ていると司馬遼太郎は推測している。

雲南は上記の地図を見ても分かる通り、中国の南の辺境で、ビルマ、ラオス、ベトナムに国境を接する場所となる。この辺りは稲作の発祥の地とも考えられており、雲南で稲作を行っていた民族(主として古代タイ語を使っていた)が長江(揚子江)を下り、その中流で展開したのが、春秋戦国時代の楚の国(秦から漢に移る時代に、漢の始祖である劉邦と戦い敗れた項羽の出身地)であり、その下流の”街道をゆく 中国・江南のみち“で述べている江南で勢力を作ったのが、呉と越、そこから越人が季節風に吹かれて海を渡り日本に来たのではないかと司馬遼太郎は考えている。

古代中国では、昆明に住んで、稲作をし、かつ進んだ青銅器文化を持つ民族のことを「滇(てん)」という名で読んでいた。この字は昆明には滇池という湖があり、そこで魚を獲り、その水を引いて水田をつくるというように、水に依存した民族であったため、サンズイ偏がつけられたと推測されている。

この地域は、度々中国本土からの侵略を受けていたが、その地形が険しく、平坦な野で密集隊形で会戦するという戦いを常識としていた中国軍は何度も戦いに敗れ、中国の版図に入るのは、そのはるか後世の元の時代になってからであったらしい。

この地域の民族(西南夷と呼ばれていた)は、部族ごとにテリトリーが決まっており、外部の者が近づくのを拒み、その中でも特に苗族(みゃおぞく)の剽悍(ひょうかん)さは凄まじいものであったと言われている。

この地域に明治時代に入った山川早水は「巴蜀(はしょく)」という文献を残し、その中で彼らについて

「骨格飽くまで逞しく、身丈け五尺七八寸に余り、皮膚黄銅色を帯び、五分刈頭には布も捲かず、帽も戴かず、勿論足は徒跣なり。殊に奇なるは、其服装にて、牛皮製の袈裟やう(註・様)のものを半肩より腰に及び、ゆらりと打ち懸けたり。

大道狭しと活歩せるさま、蛮容堂堂、迫り近く可らざる概あり。

彼山に一群、此の谷に一団、出没隠顕、寄せては返し、返しては寄せ、正攻側撃、其進退の軽捷なること、官兵の及ぶ所に非ず。」

と描写している。

街道を行くの旅の中で、昆明の空は曇り気味の成都と異なり、雲が真白で輝き、独特の明るい色彩であったと述べられている。

雲南の話題の中で、司馬遼太郎は夜郎自大」(夜郎自らを大なりとす)の故事成語について述べている。これは、漢の使者と面会した雲南の中で最も大きい夜郎国の王が「漢孰與我大」(漢と我といずれが大なるか)と尋ねたことより、「世間知らずで、自信過剰」を表すエピソードとなっている。

崑崙で一行はまず、滇池に向かう。滇池近くの石寨山遺跡からは「滇王之印」という金印が出土(下図右)しており、同様な金印が福岡で出土している(漢委奴國王:下図左)

共に漢の時代に作られたと考えられており、サイズは共に方一寸、鈕(つまみ)も蛇であり、この地の日本とのつながりを深く感じると司馬遼太郎は述べている。

さらに睡美人(西山)にある道観(龍門石窟)を訪れて滇池を上から眺め、昆陽に生まれた大航海家・鄭和を思いをはせている。

鄭 和(ていわ)は、軍功を挙げて明の永楽帝に重用され、南海への計7度の大航海の指揮を委ねられ、その船団は東南アジアインドセイロン島からアラビア半島アフリカにまで航海し、最遠でアフリカ東海岸のマリンディ(現在のケニア)まで到達した大航海家となる。

使われた船は基本は3本マストのジャンク船だが、一番巨大なものは宝船(ほうせん)と呼ばれる9本マストで全長約140mのものであったらしい。

南半球のオーストラリア付近まで到達していたとの説もあり、鄭 和の航海は異常なほど壮大なものであったと述べられている。

その後一行は、昆明郊外の少数民族イ族の支族、サメ族の村を訪ねる。滇池を望む大観公園を訪れ、市内で抗日戦線に参戦した老人と市内の茶館で語り合うなどして旅を終える。

コメント

タイトルとURLをコピーしました