シルクロードと平原の歴史

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シルクロード

街道をいくで司馬遼太郎が大航海時代をヨーロッパの視点で描いたものが”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“や、”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“であり、中国からの視点で描いたものが”街道をいく- びんのみち”となる。びんは中国福建省のことを指し、東西の文化の交流のルートとしてシルクロードについて述べられている。

紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網であり、全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした交易路となる。

シルクロードは、曹操や劉備元徳、孫権が活躍した三国時代の前の時代にあたる時代、漢王朝が紀元前114年頃に、中央アジアに進出し、かつて未開の地であったこの地域をほぼ平定したことから始まっている。

さらに同時代のアナトリア東部からアフガニスタンにかけてのパルティア帝国や、西洋でのローマ帝国などの強大な帝国が連なり、東洋からは絹、茶、染料、香水、磁器などが、西洋からは馬、ラクダ、蜂蜜、ワイン、金などが輸出され、利益をもたらした。

シルクロードが1500年近く続いたのは、一つの国が制御したものではなく、様々な国の分散型ネットワークであったためであると言われている。このシルクロードは1543年にオスマン帝国が勃興して、東西の交通を遮断したため突然終わりを告げた。

これを機に、ヨーロッパは東方の富を得るためのルートを求め、前述の南蛮のみちや”街道をゆく オランダ紀行“でも述べた大航海時代へと突入していく。

このように世界史の中で重要な役割を示したシルクロードという言葉は、西洋文化圏のドイツ人が作り出した言葉だが、”街道をいく- びんのみち”では、”西田幾太郎の”善の研究”“でも述べている日本の著名な哲学者である西田幾太郎の「絶対矛盾的自己同一」という言葉を舌を噛まずに言えるほど語彙の多いハンガリー人に「シルクロードという言葉を知っている?」と尋ねたところ、その言葉は知らず、代わりに「我々には、なんと言っても、マルコポーロです」と答えられ、西洋人にとってはシルクロードはポピュラーではなかったと述べている。

シルクロードと遊牧民族

司馬遼太郎は”街道を行く”の中でしばしば、農耕民族と遊牧民族の違いについて述べている。農耕民族は、土地に居付きそこで農地を作りながらやがて大きな人の集団→国を作り上げてく民族であり、遊牧民は、定期的に牧地を変えながら移動してい生活する民族となる。

古来より、「文明は定住民によって作られる」と考えられ、世界4大文明と呼ばれるメソポタミア文明エジプト文明インダス文明中国文明の4つの文明も、いずれも大河のほとりに生まれ、肥沃な三角地帯で農耕民族により発達してきたと考えられてきた。

この考え方に対して、たとえば、太平洋の島々を移動していた人々が、海を結びつけた「文明」を築いたと考えたり、ユーラシア大陸の広い草原を移動してきた遊牧民が独自の文明を育み、それが周囲の定住民の文明に大きな影響を与えてきたという考え方等が、近年広く評価を得てきている。

シルクロードの舞台となるユーラシア大陸の中央部には、広大な平原が広がりユーラシアステップ(Eurasian Steppe)と呼ばれる。この地域では、気候が厳しく、夏は暑く乾燥し、冬は寒く厳しい条件が広がっており、農耕には適さず、遊牧民族の生活様式に適している場所となる。

今回は、このシルクロードでの遊牧民族について述べてみたいと思う。

ユーラシアステップは、前3000年頃に、黒海北岸からカスピ海北岸にかけての地域で、気候変動により乾燥化が始まったことから始まる。前述の変化によりこの地域の広葉樹林が草原地帯へと変化していき、人々は農耕生活よりも家畜――羊や山羊、牛、馬など――とともに草を追って移動する放牧生活を選択するようになっていく。現在の研究では、この地域の気候変動が「遊牧民誕生」の大きな契機だったと考えられている。

それから少し時代が下がった前2000年ごろから前1700年ごろにかけて、ウラル山脈からカザフスタンにかけての草原地帯で、二輪戦車に乗ったインド=ヨーロッパ語族の軍団が、南方を脅かしたという説もある。二輪戦車とは、戦闘用の馬車のことであり、この頃は、馬具や騎乗の技術が発達しておらず、人間が馬に直接乗るのは困難であり、戦闘に馬を利用する場合には、左右に車輪がついた馬車を馬に引かせる形をとっていた。

遊牧民がいつごろから騎乗の技術を身に着けるようになったのかは不明だが、アジアや地中海で人が馬に乗るようになったのは、前10世紀頃のことと言われている。さらに、草原地帯で乗馬が開始されるのは、前9世紀〜前8世紀頃のことであったというのが、現在の学説になっている。

この前9世紀中頃は、再度世界的な気候変動が生じ、それまで半砂漠だった地域が草原化するようになり、草原地帯が増え、遊牧民が騎乗するようになった時代であると考えられている。

このような環境の変化の中で、現在の歴史研究では、「最初の遊牧民はスキタイ人」という説が有力となっている。スキタイ人は、前7世紀頃から前3世紀頃にかけ、パミール高原西部からヴォルガ川までの黒海北岸に及ぶ草原地帯で活動したといわれ、最盛期は前6~前4世紀であったとされている。

馬を自在に操り、集団で家畜を追う遊牧民は、それだけで大きな人事力を有することになる。スキタイ人はイラン系民族に属すると考えられており、西アジアのヒッタイト人などの諸民族から鉄器製造の技術を導入し、農具や武具に利用していた。彼らはそれを東方に伝える役割を果たした。

スキタイ人は、前6世紀以降には、黒海の周辺、南ロシア、北カフカスの草原を中心として強大な王国を形成したばかりか、アケメネス朝のダレイオス3世やマケドニアのアレクサンドロス3世とも戦っている。高度な騎射技術を身に着けていたスキタイ人は、非常に高い軍事力を備えていた。このように勇敢で強かったスキタイ人だったが、3世紀にゲルマン人の一派で、黒海北岸に居住していた東ゴート人に滅ぼされたと言われている。

スキタイ人に続いた有名な遊牧民として、モンゴル平原にあった匈奴がいる。彼らもまた強大な軍事力を持った集団であった。

匈奴が明確な形で歴史に登場するのは、始皇帝が中国を統一した時代で、中国の統一と同時期に、匈奴も複数の部族が統一され、強力な国家になっていった。この脅威を振り払うため、始皇帝は、将軍である蒙恬を派遣し、匈奴をオルドス地方(現在の中国・内モンゴル自治区南部)から追い払い、さらに彼らの南下を防ぐために万里の長城を建設した。

こうした秦の対策もあり、匈奴の勢力は一時的に衰えていく。しかし、冒頓単于(単于=匈奴の王。在位前209〜前174年)の時代になると、匈奴は急激に強大化し、復活していく。冒頓はまず、東の遊牧民集団・東胡を滅ぼし、続け様に西の遊牧民集団・月氏を敗走させるなどして、瞬く間に広大な帝国を形成した。さらに冒頓は、前200年、漢の高祖・劉邦の軍隊を破り、漢は、始祖である劉邦が冒頓に敗れてから50年ほど、匈奴の属国となっていた。

このような関係を逆転させようと試みたのが武帝(在位前141〜前87年)で、武帝は、「匈奴討伐」のために、武将である衛青、霍去病(かくきょへい)らの軍を派遣し、さらに張騫の軍で挟撃させるなど、度重なる遠征を行なった。次第に形勢が怪しくなった匈奴は、烏維単于(うい ぜんう:在位前114〜前105年)の治世下になると、漢から人質を要求されるまでに衰退する。その後、分裂と統一を繰り返すなどして、歴史から姿を消していった。

表舞台から姿を消した匈奴だが、実はその一部が後に「フン族」と呼ばれる人々になったのではないかという説もある。フン族とは、北アジアの遊牧騎馬民族で、その西進がゲルマン人の大移動を引き起こしたとされる人々となる。確定した学説ではないが、アジアの遊牧騎馬民族が、ヨーロッパを揺るがす大移動のきっかけを作ったのは間違いないようである。

フン族は、最盛期にはその領土は、中央アジアのステップから現在のドイツにまで広がるという巨大な帝国を形成していった。フン族は、アッティラ(406〜453年)の治世下で最盛期を迎えるが、451年のカタラウヌムの戦いで、西ローマ・西ゴートの連合軍に敗れ、翌452年にはイタリアに侵入するが、自陣の中で疫病が流行しため撤退を余儀なくされ、その翌年、アッティラが病死すると、この強大な帝国は急速に衰退し、崩壊してしまう。

その後、回鶻(かいこつ、ウイグル)、黠戛斯(キルギス)、タタル族、ソグド族、モンゴルケレイトメルキトナイマンといった諸部族が割拠する時代となっていった。

その後、”街道をゆく モンゴル紀行“ても述べているように1200年頃にチンギスハンがモンゴルを統一してモンゴル帝国を作り勢力を拡大し始める。

1240年には、チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアンがポーランドや”街道へ行けなかった国-ハンガリー“で述べているハンガリーまで侵攻するが、1242年になってオゴデイ・カアンが死去したため、モンゴル征西軍は帰還を余儀なくされる。

第5代将軍であるクビライ・カンは、中国を征服し1271年に大元帝国を作り、1274年と1281年には、”街道をゆく 壱岐・対馬の道“にも述べている日本への侵攻を行うが失敗に終わっている。

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