街道をゆく オランダ紀行

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第35巻 オランダ紀行

前回はニューヨーク散歩であった。今回は「まことに世界は神が作り給うたが、オランダだけはオランダ人が作ったということがよくわかる」と司馬遼太郎が述べているヨーロッパの中でも、いちはやく自律主義や合理主義、近代的な市民精神を確立したオランダの旅となる。

一行は空路アムステルダム入りした後、オランダの町を歩きながら、海とは切っても切り離せない国土や貿易の歴史について考える。ライデンではシーボルトが日本から持ち帰ってトチの木を眺めながら、決死の大航海で日本にたどり着いて一隻のオランダ帆船から始まった日蘭交流について考え、港町ホールデンでは、オランダが貿易立国になったニシン漁について考える。さらに「ネザーランダー(低い土地の人々)」と呼ばれながら、低地を干拓することによって国土を作ってきたオランダの国民性に思いを寄せ、アイセル湖と北海を仕切る大堤防へと足を伸ばす。

その後、ルーベンスやゴッホなどのオランダゆかりの画家たちのゆかりの地であるベルギーのアントワープや、ドイツのマーストリヒトやアーヘン、そしてオランダのニューネンを巡り、それぞれの画家について思いを寄せている。

今回の旅はオランダ。日本ではネーデルラント(オランダ語 Nederlanden 英語 Netherlands 「低地」という意味)のことを「オランダ」(Holland)と呼んである。オランダは正しくは「ホラント」であるが、本来これはネーデルラントの中心にある州の名前となる。

ホラント州はネーデルラントがスペインから独立する際に中心となって戦ったので、外国から見てネーデルラントをホラントというようになっている。特に日本では、日本に最初に来たヨーロッパ人であるポルトガル人が、ネーデルラント連邦共和国をオランダと呼んでいたのが日本で定着し、現在に及んだものとなる。

オランダ政府は2020年1月1日より、公式国号としてのオランダ Holland を使用せず、すべて the Netherlands とすると発表、同時に各国でも Holland を使用しないように、という通達を出している。これまでは同国の英語表記は Holland (固有名詞なので定冠詞は付けない)と the Netherlands (netherland だけだと低地という言う意味の普通名詞なので、国名としては定冠詞を付ける)の両方を使用していたが、ここに来て一本化することになった。

オランダは、元々スペイン=ハプスブルク家領としてスペイン王に支配されていたが、中世末期から毛織物業などの産業を発展させ、16世紀からは新教徒のカルヴァン派が多くなり、この地を所有していたスペインは”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べているようにカトリックの守護者の立場の国であるため、カトリックを強制したことに反発して1568年から反乱を開始、オランダ独立戦争に発展した。1581年には独立宣言を行い、その後独立承認まで80年間かかり、1648年に国際的に独立承認される。日本では、関ヶ原の戦いから徳川幕府成立の頃にあたる。

この独立戦争を行う一方で、オランダは積極的な海外進出に乗り出し、1602年にはオランダ東インド会社を設立して、南インド・東南アジア・台湾などでポルトガル勢力を駆逐し、1623年にはアンボイナ事件でイギリスの勢力を排除することに成功し、東南アジアとの香辛料貿易で独占的な立場を獲得した。

日本とオランダの400年にわたる交流は、慶長5年(1600)に始まる。この年の3月(1600.4)、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)の海岸に1隻の外国船が漂着した。これが、日本に到着した最初のオランダ船リーフデ号である。

リーフデ号を含む5隻のオランダ船は、1598年6月、東洋を目指しロッテルダムを出港した。船団は南アメリカ南端を回って太平洋に入るコースをとったが、嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみであった。少数の生存者の中に、船長クワケルナック、高級船員ヤン・ヨーステン、イギリス人航海士のウィリアム・アダムスらがいた。彼らは、政治の実権を握っていた徳川家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになる。ヤン・ヨーステンは朱印状を与えられ貿易に活躍、江戸の居住地はその名をとって「八重洲河岸」と呼ばれるようになった。アダムスは家康に信任され、外交顧問としても活動、与えられた知行地と水先案内の職務により、「三浦按針」と称された。

当時日本との交易に携わっていたのは”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“でも述べているようにカトリック教会を背景としたポルトガル人であった。家康は彼らカトリック教会に対抗する勢力としてプロテスタントであるオランダ人と付き合おうとし、日本との貿易を許可する朱印状をクワケルナックらに与えた。これを受けてオランダ東インド会社の船が慶長14年(1609)九州平戸に到着、オランダ総督マウリッツからの家康への親書と献上品をもたらす。家康は使節を駿府に迎え、書状と通航許可の朱印状を託した。これにより”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べているようにオランダ商館が平戸に設立され、日蘭の貿易が開始された。

日蘭貿易には当初なんら制限はなかったが、元和2年(1616)明船以外の外国船の入港が平戸と長崎に限定される。

17世紀前半のオランダは、海外との貿易の展開と共に、国内での干拓事業・運河網の建設などの農業基盤が整備が進み、都市向け園芸農業が盛んになった。風車でおなじみのオランダの農村風景はこの頃出来上がった。またガラス工芸、毛織物、造船、醸造、印刷などの工業も起こり、ヨーロッパで最も高い生産力を誇る地域となった。

また、三十年戦争の時期、オランダでは、フランス人のデカルトはオランダで生活し、『方法叙説』などを著し、数学的な思考に基礎をおく合理論哲学の思索を深め、イギリスの経験論哲学とともに後の思想に大きな影響を与えた。またオランダ人の法学者・外交官のグロティウスは、三十年戦争を体験する過程で国際法の理念を打ち出すなど、ともに近代思想に大きな影響を及ぼしている。

また従来のカトリックのように教会を介して神に繋がる中央集権的な組織ではなく、聖書を個人的に解釈し、信仰の問題において直接神とのつながりを持つとされているプロテスタントの教えは、個人に重きを置いた自律的な活動を推奨したため、ヨーロッパの中でも、いちはやく自律主義や合理主義、近代的な市民精神を確立した地域となっていった。現在では、”キリスト教の核心を読む 橋をつくる-キリスト教と現代“でも述べているようにカトリックも開かれた組織となっている。

フランスで皇帝となったナポレオンは、1806年6月、バタヴィア共和国を倒し、弟のルイを国王につけてオランダ王国とした。ナポレオンの大陸支配の一環であった。しかし国王ルイはオランダ人に対して妥協的であったため、ナポレオンは1810年には国王を廃し、フランス帝国の直轄領とした。オランダ王国は1806~1810年の短命に終わり、オランダはナポレオン帝国に組み込まれ、世界から一時、消滅することとなった。

ナポレオン没落後、ウィーン会議で締結されたウィーン議定書で、フランスに併合されていたオランダはオラニエ家のウィレム1世を国王とする立憲王国として復活した。またこのとき、フランスに隣接するベルギーをフランスの影響から分離させるため、オランダに併合した。そのため、この国を連合王国ともいう。こうしてオランダは、それまで「総督」であったオラニエ家が「国王」となって王位を世襲する王国となり、王位は現在まで継承されている。

ここでベルギーはオランダの一部としてその支配を受けることになったが、オランダとは多くの対立点があった。一つは、オランダはプロテスタント(カルヴァン派)であったが、ベルギーはカトリックが優勢であったこと。もう一つは、オランダ語が公用語とされたが、ベルギーは北部のオランダ語(フランデレン)と南部のフランス語系のワロン語の地域に分かれていたこと。さらに、人口ではベルギーが多いのに、議会の議席は同数とされたこともあり、ベルギー側に独立の気運が高まり、1830年のフランスの七月革命に刺激されて蜂起し、同年10月にベルギーの独立を宣言して分離した。

第二次世界大戦の時代に、1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵攻、国王と政府はロンドンに亡命し国民に抵抗を呼びかけた。国内はドイツと親ナチス勢力(オランダ人ファシスト)によって支配された。この間、ドイツに対する抵抗運動やユダヤ人に多くの犠牲者が出た。ドイツは占領下のオランダ人を強制労働に動員した。ユダヤ人は占領期の3年間で約10万人6千人が強制収容所に送られ、殺害された。

1944年6月、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を開始、9月12日にオランダに入ってドイツ軍を徐々に追い詰め、1945年5月5日、ドイツ軍は降伏し、オランダは解放された。

並行してヨーロッパの統合にも積極的に推進し、1948年のベネルクス関税同盟結成に始まり、51年のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体への加盟、57年のヨーロッパ原子力共同体ヨーロッパ経済共同体の結成を勧めた。その流れは、1967年のヨーロッパ共同体を経て、1992年のオランダのマーストリヒトで採択されたマーストリヒト条約によるヨーロッパ連合の発足へとつながっていく。

街道をゆく オランダ紀行では、このようなオランダの歴史を流れを追いながら、アムステルダムからライデン、ホールデンを経由して、ドイツ/ベルギー/オランダの境界であるファルース山を訪れている。

次回は日蓮と山梨県身延山にある久遠寺について述べる。

コメント

  1. […] 次回はオランダ紀行について述べる。 […]

  2. […] これを機に、ヨーロッパは東方の富を得るためのルートを求め、前述の南蛮のみちや”街道をゆく オランダ紀行“でも述べた、大航海時代へと突入していく。 […]

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