life tips & 雑記 禅の歴史と思想 旅と歴史 アートとスポーツ 本ブログのナビ
イントロダクション
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。 前回はオランダの旅について述べた。今回は日蓮と山梨県身延山にある久遠寺について述べる。
日蓮と法華経
日蓮は、”街道をゆく – 三浦半島記“でも述べている鎌倉時代の初期、公家政権の終わりを象徴する承久の乱の翌年(1222年)に、安房国(現在の千葉県南部)の太平洋に面した小湊で、量子の子として生まれた。十二歳で地元の寺、清澄寺に入り、十六歳の時に正式に僧侶となり、二十一歳から三十二歳までの十年間を鎌倉、比叡山、高野山、四天王寺などで学んで清澄寺に戻った。
このとき日蓮は、はるか彼方の海に向かって、初めてお題目「南無妙法蓮華経」を唱えたとされ、日蓮宗では、このときを立教開宗の年としている。
日蓮宗は、”般若経の教えにモデルチェンジを加えた法華経“でも述べている法華経を唯一無二のものとし、法華経を指す「妙法蓮華経」の五字を本仏の名号と見なして南無(帰命)する言葉として、「南無妙法蓮華経」という漢字七字をお題目とし、さらに、連続して「南無妙法蓮華経」と繰り返し唱える修行を「唱題(しょうだい)」として、様々な修行の中でこの唱題を行うことを最も重視した。
法華経は大乗仏教の代表的な経典で、大乗仏教の初期に成立した経典でもあり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれているものとなる。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。
中国天台宗の開祖・智顗(ちぎ)は、「般若経」や「法華経」「華厳経」「維摩経」「阿含経」などの経典を分類・判定して、「法華経」こそが釈迦が本当に言いたかった、最も上位の教えであるとしている。(「法華経」が「誰でも仏になれる」という教えを最も強く主張していたため)
“街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“でも述べた比叡山は、最澄があらゆる仏教の教えを統合するものとして「法華経」を位置づけ、このお経を中心に仏教全般を学ぶための”総合大学”として開いたのが起源となる。
その後の浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元らもすべてこの比叡山大学の卒業生であり、つまり日本の宗派のほとんどは多かれ少なかれ「法華経」に影響され、その教えを何らかのかたちで自分たちの教義に取り入れていると考えられ、あらゆる日本の仏教のベースとなっているとも言える経典となる。
「妙法法華経」は二十八の章(品(はん))で構成されている。全体を通して読むと、一部にしか記されていない教えがあったり、前半と更新で教義の内容が食い違っていたりするために、お経のどこの部分に注目するかによって解釈が異なってくる。日蓮系の宗派は現在きわめて複雑に分派しているが、分かれた理由の一つは、お経のどの部分に注目したかという解釈の違いによる。
法華経の最も大きな特徴は前述ののように、誰でも仏になれるという考え「一仏乗」で、これは”大乗仏教と般若経”で述べている初期の大乗仏教の経典である般若経が「三乗(さんじょう)思想」を唱えて、特殊な修行を達成した一部の人のみが仏になれるとした考えと大きく異なっている。
さらに法華経では、般若経での重要なキーワードである「空」の概念を飛び越え、「あれこれ考えなくても、このお経を信奉すれば、それであらゆる問題は解決する。このお経を讃えながら暮らすことが、ブッダへと向かう菩薩の道だ」と主張している。
日蓮はこの法華経のみを肯定し、その他の経典、宗派を否定し、法華経以外の悪法が流布されてしまったため、国土を守護すべき善神が日本を見捨て、”富士登山の歴史と登山競走“でも述べた富士山の噴火や、”空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜“でも述べている地震、疫病の広まりなど様々な厄難が続き、また律令制度の崩壊(人単位に課税をしていたものが、人口も増え対応ができなくなり土地単位の課税に変化し、さらに武士という武力集団の台頭で地方が乱れてきた)とともにこの世の終わりが来たという末世が生じてしまったと主張した「立正安国論」を著述し、当時の権力者である北条時頼に上申している。
そこから、日蓮の苦難は始まり、草庵を焼き討ちされたり、伊豆・伊東に流罪となり、三年後に許されるも、また「立正安国論」を上申、今度は佐渡に流され、島流の前に暗殺されそうにもなる。佐渡から許されて鎌倉に戻った時、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べている一度目の蒙古襲来が起き、このままでは再び蒙古がやってくると幕府に訴えたが、幕府はこれを取り上げず、日蓮に対して圧力を加えた(実際には、二度目の蒙古襲来も起きる)。
日蓮はそれらの圧力を逃れるため、鎌倉を離れ 山梨県にある身延山に現地の領主である波木井(南部)実長(“街道をゆく – 陸奥のみち“で述べている青森・八戸氏の祖)により寺を提供され、落ち着くこととなる。
見延山 久遠寺
日蓮はこの身述山を、釈迦が「法華経」を説いたと言われるインドの聖地である霊鷲山に見立てており、この身述山に作られたのが日蓮宗の総本山である久遠寺となる。
久遠寺はJR中央本線で新宿から特急で1時間40分の甲府で身述線に乗り換え、そこからさらに身述駅まで特急で1時間、身述駅からバスで12分のところに身述山(門前町)がある。車だと中央高速で双葉JCTで中部横断道に乗り換え、身延山ICで降りるこれも新宿から約2時間の工程となる。
久遠寺に向かうには、三門と呼ばれる入り口を通り
菩提梯と呼ばれる、二百八十七段、百四メートルの高さがある参道がまっすぐ伸びている。
この参道は、奈良の室生寺にある長い参道にも匹敵する長さとなるが、一段の長さが普通の階段の2倍近くあり、それなのに奥行きが普通の半分ほどしかないため、階段を登っているというよりも、崖を登っている感覚になるという。
菩提梯の菩提は悟りの境地を表し、梯ははしごの意味なので、「悟りへの階段」という意味になり、この階段を登るには、”行”として登ることがふさわしいものとなる。また、この階段を使わない楽道が男坂、女坂として繋げられている。
久遠寺近辺では、団扇太鼓と湯葉れる団扇形の太鼓を叩き、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と規則正しい太鼓のリズムに合わせて、お題目を唱える姿を見ることができる。
これは日蓮宗独特のもので、他の宗派ではあまりみられないものとなる。
本堂をはじめ、祖師堂などのいくつもの堂宇は、参道を登りきった山の中腹にある。本堂の左脇からさらに身述山の頂上にある奥の院に向かう山道が伸び、そこを歩くには二時間以上かかるが、それに並行して身述山ロープウェイがあり、10分ほどで頂上に向かうことができる。
頂上では、富士山を眺められる絶景を楽しむことができる。
次回は街道へ行けなかった国ハンガリーについて述べる。
コメント
[…] 日蓮と久遠寺 […]
[…] 次回は日蓮と山梨県身延山にある久遠寺について述べる。 […]