空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜

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イントロダクション

禅の思想と歴史、大乗仏教、道の思想、キリスト教“でも述べているように、仏教は元来、修行を通してすべての苦悩から逃れられる超越した存在になっていくという個人の完成の観点から始まり、より多くの人々の救済という流れに変化し、それが大乗仏教という形で日本に伝来した。

聖徳太子の時代に伝来した仏教は、その哲学的側面に注目され国家を収める思想として広められ、さらに”街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“で述べている最澄の時代に、「すべての人が仏になれる」と説く法華経の教えに即した大乗仏教へと変わっていった。

しかしながら、当時の仏教が権威を持っていく中で、すべての人という解釈が当時の権力階級であった貴族に限定され、それらの貴族の要求である現世御利益を求める為の密教中心の世界に次第に変わっていった。

この流れは平安末期まで続くが、”富士登山の歴史と登山競走“で述べている富士山の噴火や、地震、疫病の広まりなど様々な厄難が続き、また律令制度の崩壊(人単位に課税をしていたものが、人口も増え対応ができなくなり土地単位の課税に変化し、さらに武士という武力集団の台頭で地方が乱れてきた)とともにこの世の終わりが来たという末世思想が広まっていった。

このような時代に、既存の宗教に疑問を感じ、大乗仏教本来の「すべての人が仏になれる」に立ち戻り、貴族以外のすべての庶民のための仏教を立ち上げ広めたのが空也、法然、親鸞、一遍らに浄土思想となる。今回はこれら浄土思想について述べたいと思う。

空也

六波羅蜜寺が所蔵する「木造空也上人立像」でも有名な空也は、日本における浄土教念仏信仰の先駆者と評価されている。彼は、観想を伴わず、ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏(口称念仏)を日本において記録上初めて実践したとされ、摂関家から一般大衆に至るまで幅広い層・ことに出家僧に向けてではなく世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴である。

空也で有名なのは、京都の六波羅蜜寺にある空也上人像となる。この像は、空也上人が「南無阿弥陀仏」を唱えるとそ の一音一音(南・無・阿・弥・陀・仏)が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻化しているもので、痩せてはいるが民衆と共に生活 した空也上人の力強さを表現しており、布教だけでなく、橋を架けたり井戸を掘るなど「市聖」と呼ばれ民衆から慕われた空也を生き生きと表現しているものとなっている。

法然

法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本であり、はじめは山門(比叡山)で天台宗の教学を学んでいたが、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖となった。

肖像画を見ても分かるように法然は争い事を好まない優しい性格で、晩年既存の勢力(比叡山の僧侶等)に目をつけられ、後鳥羽上皇に念仏停止の断を受け、さらに讃岐の国に配流されても、それらを素直に受け止め、逆に現地で布教活動に励むような人物だったらしい。法然のことばとしては

「げに凡夫の心は、物ぐる日、酒によいたるがごとくして、善悪につけて思い定めたることなし、一時に煩悩百たびまじはりて、善悪みだれやすければ、いずれの行なりとも、わがちからにては行がたし」

すなわち、人間の本性は迷いばかり多い凡夫である、人間とは「わがちから」自力では往生はおろか、なかなか修行を重ねることもできない存在なのではあるまいか、と凡夫であることの自覚を持ち、唐の時代の僧・善導が著した「観経書」をベースに、ただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えされすれば、かならず阿弥陀如来の救済があり、浄土からの迎えがあると主張した。

念仏を口に唱えるくらいは、いかなる凡人にも容易に実践することができ、ひたすら念仏だけを唱える(専従念仏)というやさしさこそ「人間とはすなわち凡夫である」という認織にたった法然の、凡夫に向けた拓跋な発明となった。

この法然の教え、その実践の容易さは、それまでの仏教とあまりに相反し、そんな簡単なことで人は救われるのかという疑問や批判が数えきれないくらいに浴びせかけられた。それに対して法然は

「いかにいはんや仏法の不思議の力、あに種々の益なからやむや、…、これがために縁にしたがって行を起こして、おのおの解脱を求む」

「仏法の不思議の力」は広大無辺のものであって、救いの力はまさしく向こうから私たちの方へ働きかけてくる、仏法はその人の器量に応じて救いを投げかけてくれるのだ。と述べている。この考え方は”キリスト教の核心を読む 三大一神教と旧約聖書とアブラハム“に述べているキリスト教やイスラム教、ユダヤ教等の一神教の考え方にも通じるところがある。また、禅の坐禅により無になるという行為もそれほど遠い概念ではないように思われる。

親鸞

親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家であり、親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされた僧侶となる。

親鸞は、法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。

親鸞は様々な悩みに悩まされていた。一つは愛欲であり、もう一つは末法思想に呪縛されているというものであった。そこで比叡山を紛れ、京都の六角堂(聖徳太子が救世観音を供養して創建したものが六角頂法寺)に山籠し

「行者よ宿法に設い女犯せんに、われ玉女の身となって犯されん。一生の間よく荘厳し、臨終に引導して極楽に生まれしめん」

という夢告を受けた。この夢告により迷いが去った親鸞は法然のもとを訪れて不退転の決意で入門を申し込む。その後、彼の人生は、阿弥陀如来をたのんで念仏し、極楽浄土に往生することの工夫をめぐらし、法然の教えを実践することにささげられる。

革新的な仏教を唱える法然とその教団に対するかぜあたりはきびしく、前述のように法然たちが四国に流刑されたときに、親鸞は新潟に流刑されている。法然の弟子の何人かは処刑され、法然や親鸞は僧籍を剥奪され、俗名を名乗ることを強いられていた。

俗名を名乗るならば、もはや僧ではなく、また俗人でもない、そこで親鸞は「禿」をもって姓とし、流刑以降は「悪禿親鸞」と名乗り、自分を含めた末法に生きる人々を「煩悩具足の凡夫」「罪業深重の凡夫」と呼び、人は煩悩にまみれた罪深い凡夫なのだと唱えた。

親鸞の教えとして有名な「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」もこの文脈でとらえられ、ここでの悪人は末法時に生まれたがゆえの宿業によって、不可避に悪人であり、往生を願うすべての人を救済すると請願をたてた阿弥陀如来により、極楽に往生できぬ者はいないという「絶対他力」が親鸞の教えの根本となっている。

一遍

街道をゆく 信州佐久平みち(長野)“でも述べた一遍は、鎌倉時代の僧侶であり、時宗の開祖でもある。

一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称され、一遍の唱えた時宗の総本山は神奈川県藤沢市にある遊行寺にある。

時宗では浄土宗の教えをさらに汎用的に広げ、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いている。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。

まとめ

これまでの一部の限られた人による「完成された人間の成就」から、完成されることのない普通の人々の救済を目指した大乗仏教の教えに、革命を起こし、阿弥陀如来により、文字通りに誰でも救済されるという教えを構築した浄土教は、利他思想の一つの完成形ということもできる。浄土教はすべての人に安心感と希望を与えるものになっているとともに、共同体への結束感を熟成し、社会的なつながりを重視した日本的な考え方のベースとなっている宗教であるとも言える。

コメント

  1. […] 空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜 […]

  2. […] 道元は、同時代に全盛期となった”空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜“でも述べた浄土信仰の、他力本願(阿弥陀如来への信仰により人は救われる)の考え方を受け入れら […]

  3. […] 日蓮はこの法華経のみを肯定し、その他の経典、宗派を否定し、法華経以外の悪法が流布されてしまったため、国土を守護すべき善神が日本を見捨て、”富士登山の歴史と登山競走“でも述べた富士山の噴火や、”空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜“でも述べている地震、疫病の広まりなど様々な厄難が続き、また律令制度の崩壊(人単位に課税をしていたものが、人口も増え対応ができなくなり土地単位の課税に変化し、さらに武士という武力集団の台頭で地方が乱れてきた)とともにこの世の終わりが来たという末世が生じてしまったと主張した「立正安国論」を著述し、当時の権力者である北条時頼に上申している。 […]

  4. […] “空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜“でも述べている浄土宗の流れの一つである浄土真宗は、すべてが阿弥陀如来のおかげで生かされているという絶対他力もを想定している宗教であり、そこには「お蔭(おかげ)」という概念が成立し、そのため、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではなく、自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などという表現を広く用いるものとなる。 […]

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