キリスト教の核心を読む 三大一神教と旧約聖書とアブラハム

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サマリー

NHK学びの基本「キリスト教の核心を読む」より。今回は三大一神教と旧約聖書とアブラハムについて述べる。

三大一神教と聖典

キリスト教は世界三大一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の一つとなる。それぞれの宗教の「聖典」について考えると、ユダヤ教の聖典は旧約聖書であり、キリスト教の聖典は旧約聖書+新約聖書、イスラム教の聖典はクルアーンとなる。(コーランという呼び名の方が馴染みがあるが、最近はアラビア語の元の音を重んじてクルアーンと呼ばれている)

旧約聖書はの大部分はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれている。ヘブライ語とギリシャ語はかなり異なる言葉で、ヘブライ語は、言語の系統としてはセム系と呼ばれるもので、アラビア語と同じグループになる。文字もアラビア語と同じように右から左に書く、クルアーンもアラビア語で描かれており、対するギリシャ語は英語やドイツ語と同様のインド・ヨーロッパ系の言語となる。

これら3つの宗教の聖典には共通点がある。ユダヤ教とイスラム教は、言語系統的にきわめて近い言語でか描かれており、他方、キリスト教とユダヤ教は、旧約聖書という経典をまるごと共有している。

3つの宗教すべてに共通するのは、聖典とは、単に人間が「神とはこういうものだろう」と深く考察し、彫られた洞察を描いたものではなく、神の側から「自分はこういう存在だ」と啓き示されたことが書いてある、という理解となる。

もう一つは、聖典の範囲がはっきりしていること、三大一神教にはそれぞれ、「ここからここまでが聖典です」「それ以外は聖典とは見做されません」という明確な境界がある。以前”大乗仏教と般若経“等で述べたように、仏教ではその教えは様々に変化していき、それぞの宗派ごとに大事にしている経典はあるにしても、それ以外はお経とは認めない、というよな明確な境界はない。三大一神教では先ほど挙げた書物のみがそれぞれの聖典とな。

それぞれの聖典の「成立の順番」は、まず旧約聖書が成立し、次に新約聖書が成立し、最後にクルアーンが成立する。このことにより、ユダヤ教は旧約聖書までしか聖典と認めず、キリスト教は、旧約聖書+新約聖書を聖典として認め、クルアーンでは聖典としては認めないものの、旧約聖書や新約聖書に出てくる出来事や人物が、少し変更を加えられつつ聖典の中に出てくる形となる。つまり、より後に成立する聖典は、それ以前に成立した聖典を踏まえつつ、新たな話を付け加えたり、前の晴天に述べられているものに対して独自の解釈や変奏を加えていくという構造となっている。

このように多くの共通点やつながりを持った三大一神教だが、違いもそれぞれにある。まず聖典とクルアーンの大きな違いは、聖典は人の手が加わったものかそうでないかという点にある。

聖書では、神は歴史の中で自己(神自身)を開示し、聖典は人間がそれを記録したものと捉えている。つまり、聖書の一字一句は髪が語った言葉そのものではなく、人間がそれを解釈し記録したものという形式になっている。

一方でクルアーンは、一字一句が神によって語られた言葉だという形式であり、髪の刑事は、神自身が語られたクルアーンという書物そのもののうちにあるというものになる。なので、クルアーンの翻訳は、厳密にいうとクルアーンではなく、あくまでもクルアーンの解説書であり、神が語った言葉そのものはアラビア語で書かれたクルアーンだけということになる。

旧約聖書と新約聖書

ここで旧約聖書と新訳聖書の違いについて述べる。新約聖書はイエス・キリストについて書かれている聖典であり、それ以前の神と人間との関わりについて書かれているのが旧約聖書となる。新約聖書で扱われているのが紀元後数十年の出来事、旧約聖書が扱うのが、紀元前の数千年に渡る歴史となる。

旧約聖書や新約聖書の「約」は契約を意味しており、神と人との関係を契約という概念で捉えるのが、聖書の特徴の一つとなる。この契約とは、例えば旧約聖書の中でイスラエル人の指導者モーセが、圧政に苦しんでいたイスラエルの民を率いてエジプトから脱出した「出エジプト記」では、脱出の際に海が割れて道ができるなどの奇跡が起き、シナイ山で神から十戒を授かり、「約束の地」果南へと向かって旅する。

このときモーセを通じて神とイスラエルの民(ヘブライ人、イスラエル人)との間にシナイ山で結ばれた契約を代表する、イエス以前の神と人間との契約がユダヤ教の中心となる契約となる。、旧約聖書では、十戒を中心とする律法を神が授与し、民がそれに従うことを誓い、そのことにより神から祝福が与えられるといった物語が語られている。

これに対して新約とは「神の子」であるキリストが人間となり、神と人との仲介者として打ち立てられたと考えられた「新しい契約」となり、キリストが新しい契約を打ち立てたと考えたキリスト教徒たちは、従来の契約を「古い契約(旧約)」として相対かしつつ、その存在を肯定した。

つまりキリストを通じ、神と人との新しい関係が可能になったからといって、古い契約がまったく無意味になったものではなく、むしろ旧約時代に培われた神と人間との相互関係が基盤となって初めて「新約」もかのうになったのだと解釈し、旧約聖書と新約聖書の両方を聖典として捉えるのがキリスト教の考え方となる。

旧約聖書の構成

旧約聖書はキリスト教の立場になった呼び方であり、ユダヤ教では古いも新しいもなく、タナッハ(Tanakh)と呼ばれる。旧約聖書をトーラー(Torah)、ネブィイーム(Nerviim)、ケトゥヴィーム(Ketuvim)という三つの部分に分けて、その頭文字「TNK」に母音を加えたのがタナッハとなる。トーラーは神の律法、ネヴィイームは預言者たち、ケトゥヴィームは諸々の書物(諸書)を意味する。

旧約聖書とタナッハは含まれている文書は同じだが、並べる順序が異なっている。以下のに旧約聖書の順番にのっとって内容を紹介する。

  • 律法書 : 律法書には五つの文書が含まれている。「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」まとめてモーセ五書と呼ばれている。モーセは旧約聖書のなかで最も偉大とされる人物で、神から与えられた律法を人々に伝えた人となる。そのモーセの活動についてまとめたものがモーセ五書となる。
  • 歴史書 : 歴史書は、過去の歴史について書かれた部分となる。聖書では神は歴史を通じて働くと考えられている。そうした観点から、歴史書には神がどのようにこれまでイスラエルの民を導いてくださったのかということが書かれてある。
  • 文字書 : 文字書は、現在を生きるための様々な洞察が書かれている文書となる。例えば「ヨブ記」は、苦しみや悪に日々直面しながら生きざるを得ない我々の心に深く訴えるものとなる。

ヨブという義人が、日の打ちどころのない生き方をしていたにもかかわらず、大きな苦しみに逢う。家族や財産を失い、自分も病気になったりする。その中で、神が存在するのになぜ悪が存在するのか、これほどまでに大きなアクや悲惨が存在するのであれば、正義の神など存在しないのではないか、と問う。これは現代に至るまで、文学や哲学で悪の問題を考える時に繰り返し呼び出される物語とな。

同じく文学書の「詩篇」古代イスラエル人が神に対して歌い上げた賛美と嘆きの詩で「箴言(しんげん)」は格言の集まりとなる。「コヘレトの言葉」もさまざまな格言の集まりのようなものだが、いわば「無常なこの世界を生き抜く知恵」が語られている。これに対して「雅歌(がか)」は男女の恋愛の歌となり、神の話は一切出てこない。これは男女の熱烈な恋愛の形式をとって、実は神と人との愛の関係が比喩的に謳われていると解釈されている。

  • 預言書 : 預言書には、さまざまな預言者の活動が描かれている。預言者とは、必ずしも未来について予言する人物のことではなく、最も中心的な意味は、神から預かった(あずかった)言葉を人々に語る者ということ、ただ、その神から預かった言葉の内容が未来に関する身ともしばしばあるので、未来を言い当てるという側面もある。
旧約聖書の二つの読み方

旧約聖書の読み方には二つある。一つは、旧約聖書を旧約聖書そのものとして読む読み方、もう一つは、新約聖書との関係において読むという読み方となる。

これは例えば、旧約聖書の預言署に「イザヤ書」というものがあり、その中に「主の僕」という不思議な存在が出てくる。神に従って生きる正しいひとなので、不当な仕打ちを受け、非常に苦しみ、死に至った。実は彼は我々の罪や病を代わりに担ってくれたのだ、といった一節がある。この「主の僕」は一体何を意味しているのか。

旧約聖書を旧約聖書そのものとして読む場合、「イザヤ書」が書かれた当時の時代状況の中で、この人物はどう位置づけられているのか、といった観点から読むことができる。しかし、キリスト教徒は、これはまさにイエス・キリストのことではないかと解釈する。このテクストは、イエス・キリストの出現をあらかじめ告げ知らせたテクストだと読み解く。

人間を探し求める神

二十世紀を代表するユダヤ教の思想家アブラハム・へっシェルの著名作に「人間を探し求める神」というものがある。旧約聖書の大きな特徴は、人間の側が心の安定などをもとめて神にすがるというよりは、むしろ神の側が、人間を追い求めて様々な出来事を引き起こし、言葉を語りかけてくることだとヘッシェルはいっている。

これは”パラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力“で述べた大乗仏教である浄土教の教えに近いものだと考えることができる。

ただし、旧約聖書の世界の場合は、単に救いの手を差し伸べるだけではなく、人間に神の側が非常に強い促しを与えて、新たな活動をさせていく、神の川が徹底的にイニシアティブを取り、様々な出来事を引き起こし、人間に働きかけていく。その働きかけにどのように応答するのか、人間には根本的な決断が求められるというものとなる。

へっシェルは、これをユダヤ教の聖典である旧約聖書の話として述べているが、これは旧約聖書だけでなく、新約聖書やクルアーンも含めた三大一神教に共通する本質的なものだとこの本の筆者は述べている。

アブラハムの召命と移住

アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教すべてにおいて、原点と考えられている人物となる。アブラハムに関する説明としては”旧約聖書創世記の人物。メソポタミアのウルの出身で、神の言葉に従いパレスチナに移住、子イサクを通じてイスラエルの民の祖、また子イシュマエルを通じてアラブ人の祖とされる。コーランではイブラーヒームの名で現れ、カーバ神殿の建設者、唯一神信仰の原型的人格としてユダヤ教・キリスト教・イスラム教で衰廃され、比較宗教学ではこれらを「アブラハムの宗教」と呼ぶ。前名アブラム。”となる。

旧約聖書の創世記の中では「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたが示す地にいきなさい。私はあなたを大いなる国民に死/あなたを祝福し、あなたの名を高める。/祝福の源となるように、あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」アブラムは、種の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発した時七十五歳であった。」とある。

アブラムはアブラハムの元の名で、のちに神から「諸国民の父」を意味する「アブラハム」という新しい名前が与えられる。

この物語で直目すべきは、「主」がある種突然にアブラハムに現れたという点で、聖書の中での主は神を意味する。これは例えばアブラハムが生まれ故郷で嫌なことがあって、髪に新たな道を開いてくださいと祈ったら神がそれをかなえてくれた、という話でなく、むしろ一方的に、突然神が現れて、あなたは生まれ故郷を離れて私が示す地に行きなさいと指令を下しているものとなる。

神がここでいっているのは、要するに、これまでの惰性的な生き方を捨てて新たに旅立ちなさいということで、既存のしがらと決別して、故郷も父も家も離れて出発しなさいというものとなる。髪のイニシアティブが何を意味しているのかわからないが、ともかくそれに従って約束の地へと出発するところからアブラハムの話は始まる。

この話のあと、アブラハムは、あなたの跡をつぐのは家の僕ではなく、あなたから生まれるあなたの子供だという住みの言葉をうける。そして天の星のようにあなたの子孫は増えると言う。75歳という高齢のアブラハムにとって信じ難い話となる。しかし、ここでアブラハムは神を信じる。ここでも、出来事の全体が、アブラハムのことを見守っている髪の側の徹底的なイニシアティブのもとに展開している。神が「一方的」ともいえるような仕方で子孫を約束し、その子孫が土地を受け継ぐと約束する。そして、この信じ難いことを信じたアブラハムの在り方が、正しいこととして認められた。という話へと続いていく。

聖書における人間像の原型

このように旧約聖書の鍵を握るアブラハムだが、このアブラハムを現代において捉え直すとどのようになるのか、現在のカトリックの教皇フランシスコが語っていることを参照する。

「私たちの神学移住者の神学です。なぜならわたしたちは、アブラハムが髪に選ばれたそのときから、皆移住者なのです。イスラエルの民は何度も移住者となりましたし、そしてイエス自身も移住者、難民でした。それに、信仰によれば、実存的な意味で、わたしたちは移住者なのです。人間の尊厳には、必然的に「道をいく」という意味が含まれています。男であれ女であれ、道を行っていない人はミイラです。博物館の展示品です。その人は生きていません。[…]人がもう歩かないと決めた時、失敗します。人としての召し出しにおいて失敗するのです。歩き、常に道をいくことは、常にコミュニケーションすることで。道を間違えることもあるでしょうし、倒れることもあるでしょう。[…]とにかく歩くのです。(「橋をつくるために」より)」

教皇は原点であるアブラハムに立ち戻りつつ、道を歩んでいくことが人間の本質なのだと語っている。教皇はこの文脈で難民の話をしているため「移住者の神学」という言い方をしているが、これは「旅人の神学」とも言い換えることができる。

さらに教皇の言葉で注目すべきは、人間の尊厳というものを非常にダイナミックに、動的に捉えている点で、人間は理性を持っている、などと言うように人間の静的な性質を取り上げるのではなく、「道を行く」という動的な側面を捉えている。さらに、間違いながらでもそれで歩くという精神があると言っている。

旧約聖書の中でも、神に対して疑いを抱いたりして間違うこともあるが、間違いながらでも新たな道を歩み続けるという人間像が示されている。こうした理解は、信仰の有無を超えて、さまざまな困難な状況に直面しながら歩み続けている現在の我々にとっても、生きるヒントとなる。

教えを説かない「共通の祖」

三大一神教において、ユダヤ教では、アブラハムはユダヤ人の血縁上の父祖であり、イスラエルの初代の族長でもある。キリスト教では、アブラハムは信仰の模範であり、イスラム教では、ムハマンドらと並ぶ五大預言者の一人で、純粋な一神教の始祖とされている。

このように、少しずつ異なる面はあるにしても、アブラハムは一なる神を信じた人として、それぞれの宗教において重要な人物とされている。その一なる神が何者かはよくわからない。「神」と呼ばれる何者かが存在するとすれば、原理的に人間の理解を超えた側面を持っていると考えざるをえないからである。

アブラハムはそうした、何者かからの強い働きかけに答え、徹底的にそれに従っていこうという精神を体現した。旧約聖書の「創世記」に登場したこの人物が、キリスト教だけでなく、ユダヤ教やイスラム教でも原点として受け継がれて、現代に至っている。

ここで「創世記」の物語を読んでみても、アブラハムは「教えを説く」ということをしていない。「アブラハムが我々に教えてくれける思想はどういうものですか?」と聞かれれば、ほぼ何もないと言って良いくらいである。

アブラハムは、自分を超えた何者かの促しに蜜挽かれつつ、さまざまな困難や、自分が引き起こす逸脱、失敗を乗り越えながら、歩み続ける。つまり、彼は促しに導かれて行動するだけで、そこに抽象的・固定的な「教説」は欠如している。これこそが、アブラハムを「教義」や具体的な信仰形態においては異なる三つの一神教の「共通の祖」たらしめている。

次回は新約聖書について述べる。

コメント

  1. […] いを投げかけてくれるのだ。と述べている。この考え方は”キリスト教の核心を読む 三大一神教と旧約聖書とアブラハム“に述べているキリスト教やイスラム教、ユダヤ教等の一 […]

  2. […] また”キリスト教の核心を読む 三大一神教と旧約聖書とアブラハム“等でも述べているがキリスト教には、強い倫理があり、それを言葉で民衆に直に語っているため、思弁的な言 […]

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