司馬遼太郎の街道をゆく 飛騨紀行と美しい建築物

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第29巻 飛騨紀行

前回秋田散歩について述べた。今回は飛騨紀行について述べる。

飛騨紀行と美しい建築物

今回の旅は岐阜県の北部の山間にある飛騨での旅となる。飛騨へは新幹線岐阜羽鳥からタクシーにのり、中山七里下呂温泉一宮水無神社を通り左甚五郎の彫り物を見て、松倉城跡飛騨古川を経て富山県との境である越中国を見る為、神岡町の茂住まで北上したのち、高山の市街を歩く旅となる。

飛騨の旅は、画家百済河成(くだらのかわなり)の話題から始まる。河成は紀元780〜850年の平安初期に生きた日本最初の画家と呼ばれる人となる。それまでも歴史の中では様々な絵が描かれており、それらを描いた人々は存在していたが、それは無名の集団としての絵画を描く工人であり、歴史の中で画家個人としての名前が上がったのが河成だったらしい。

この百済河成と拮抗すべきものとして、個人として飛騨の匠が現れている。平安後期に成立した「古今物語集」の中でこの絵師と匠の名人試合が記載されている。その話は「「河成さん、私は ちかごろ自分の屋敷に、一間四面のお堂を立てたので、是非いらして、壁に絵を描いてください」と巧みに頼まれ、絵師が家までいき、庭内に作られたお堂の南の縁に上がって中に入ろうとすると、扉が”はたと閉じる”おどろいて西の扉から入りかけると、その扉も”はたと閉じ”、そのうち南の扉が開いたので、今度はひっかけられまいと、わざと回って北の扉より入ろうとすると、その扉も閉じ、代わりに西の扉が開く、といった塩梅でぐるぐる縁側を回らされて、家に入れずに縁側から降りてしまった」

絵師は悔しがり、時を経て飛騨の匠を自邸に招待した。匠が百済邸を訪れて案内された部屋に入ろうとすると、部屋の中に大きな人の死骸が横たわり、腐臭が辺りに満ちている。仰天して庭に飛び降り、立ちすくんでいると、絵師が先程の部屋から現れて「なんだそんなところにいたのか」といってまぁ入れと招かれて入ると、先程の死人は襖に描いた絵であった」というものとなる。

今回の旅のスタートは新幹線の「岐阜羽鳥」駅からとなる。岐阜羽鳥は岐阜県だが、山間の飛騨地方ではなく、古代の地名で言うと美濃という国名となる。美濃自体は斎藤道三等の様々な戦国武将を生み出してきた平地となる。

美濃と飛騨の境は、金山という町であり、境橋という橋で区切られているとのこと

また飛騨の入り口にあたる景勝地が飛水峡であり、中山七里となる。

飛騨の国に入ると最初にあるのが温泉で有名な下呂谷となる。下呂温泉では古くからある温泉宿である湯ノ島館に宿泊したようで、本文中にも「私どもは山の中腹の古格な宿に泊まった。さすがに飛騨の匠のふるさとらしく、見事な普請だった」とある。

さらに、部屋の中もつくりがよかったらしく「とくに部屋部屋がよかった。私が泊まったのは品のいい京壁、単純化された遠山の欄間、それら欄間も柱も障子の桟も、ことごとく桃色の春景塗りで統一されていて、抑え込んだ華やぎがある。」と表現されている。

宿のHPを見ると一泊3万円前後で泊まれるようで、一度は訪れてみたい場所となる。ここで出てきた春景塗りの春景とは人の名で、蘇芳という赤色の染料を木を細かく砕いて煮込んで作り、まずこれで木地を染めた後、透明な漆を塗って仕上げたものらしい。

この美的に発見し、全国に広めたのは、江戸時代に飛騨高山の大名であった金森氏で、元々飛騨には公家の姉小路氏が当時して京風文化が根付いていたものに、その後入ってきた金森氏が茶や絵画、建築などの芸術好きで磨きがかかったものらしい。

下呂で一泊した一行は、その後益田川を北上して「益田街道」を進み、峠に達して飛騨高山に入る。

飛騨高山は江戸時代からの古い建物が残っている場所で、本文中でも「よく 紹介される高山の市中の日下部家などの大型のものに限らず、ただの民家で十分美しい。まず、勾配が浅く、暑さを感じさせない軽快な屋根がいい。たとえ本体が新建材になっていようとも、この屋根をもつ限り、飛騨ぶりのよさを表している。…」と建物の話題が述べられている。

このような家のデザインは、木材の豊かに北欧の民家に見られるハーフ・ティンバーというものと似ているとも述べられている。

飛騨の街の中を巡った後は、飛騨国一宮の水無神宮を詣ている。

ここでも建築物に関しては「京内に入るとここも飛騨らしく建物がいい。本殿もよく、絵馬殿もいい。」と述べられている。さらに、境内の一隅に神馬堂のようなものがあり、その中に江戸時代初期に活躍した彫刻師である左甚五郎の作となる飾られている。左甚五郎は、日光東照宮の眠り猫や、東京の上野寛永寺の龍などもその作とされている名工となる。

水無神社から松倉山に向かい、飛騨の街並みを眺めた後、茂住に向かい、高山に戻って江戸後期から続いているとされる料亭「洲さき」で食事を取る。

飛騨高山では春と秋に行われる高山祭りでも有名である。

高山祭りは「屋台」と呼ばれる山車を曳いて市街を巡幸することから、京都市祇園祭埼玉県秩父市秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭や日本三大美祭の一つに数えられるものとなる。

四季の移ろいが肌で感じられる美しい山々に囲まれた飛騨高山は、温泉宿、歴史的建造物、独特な食文化による郷土料理、伝統工芸品など、様々な魅力が詰まった町となる。

次回島原天草の諸道について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく 飛騨紀行と美しい建築物 […]

  2. […] 次回は飛騨紀行について述べる。 […]

  3. […] 第17巻より。 前回は飛騨紀行について述べた。今回は島原・天草の諸道について述べる。 […]

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