サマリー
マルクス・アウレリウスは、古代ローマ時代の哲学者かつ皇帝で、ストア派哲学の最後の大師の一人でもあり、著書『自省録』で知られている。 彼の哲学は、自己管理、倫理、内省、自制心、そして道徳的な自己改善に焦点を当てていて、哲学を実践することが人生の意味を見出すための重要な手段であると主張していた。 彼の思想は、特にスピリチュアルな分野で影響を与えており、自己啓発やマインドフルネスの分野でもしばしば引用されている。
マルクス・アウレリウスの『自省録』は、彼が統治するローマ帝国における自分自身の内的な対話を記録したものとなる。彼は、自己管理、倫理、内省、自制心、そして道徳的な自己改善に焦点を当てて、自分自身に問いかけ、哲学的な洞察を通して自分自身をよりよく理解することを自らの目的としている。
『自省録』は、人間性、死、自己啓発、感情、思考、道徳、自己管理などについての短い哲学的な洞察を含んでおり、ストア派の哲学に基づいて、現実に直面し、困難に立ち向かうために、内面的な自己管理と自制心が必要であると主張している。
『自省録』は、自己啓発や哲学的思考を好む人々にとっては非常に影響力のある書物であり、現代でも引用されることが多く、ストレスや不安を軽減するための技法や、自己啓発やマインドフルネスの分野でも、しばしば参考にされているものとなる。
ここではこのマルクス・アウレリウスの自省録に対して「NHK100分de名著マルクス・アウレリウス自省録」をベースに述べている。
はじめに
生きづらい今にこそ読まれるべき針盤の章
第1回 自分の「内」を見よ
運命に導かれて皇帝に
奇跡的に残った「自省録」
「自省録」から浮かび上がるアウレリウス像
自然に一致して生きる
善の泉は自分の「内」にある
第2回 「他者」と共生する
カッシウスの裏切り
過ちは無知から
現実を超えて
賞賛を求めない
怒りや悲しみから自由になる
第3回 「困難」と向き合う
諦めない勇気
悲しみや苦しみの中で自分を見失わない
「善悪無記」なものに執着しない
運命を受け止める
悪の存在
運命を「自由意志」で受け止める
困難を受け止める力を信じる
過去を振り返らない、未来を案じない
第4回 「今、ここ」を生きる
死なない人はいない
「今」を生きる
「ここ」を生きる
他者とのつながり
「自省録」を超えて
今回はその概要について述べる。
はじめに
マルクス・アウレリウスの自省録が書かれたのは、今から二千年前、著者は第十六代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス(以下アウレリウスと略)となる。彼は絶頂期のローマ帝国を治めた名君の一人で、約二百年続いた繁栄と平和に翳りが見え始めた時期の難しい舵取りを担った賢帝となる。
名門過程に生まれたアウレリウスは、その資質と見識を見込まれ、わずか十八歳で帝位継承者に指名されている。だっ抜擢に応えて公務に献身し、三十九歳で帝位を継承すると自ら軍を率いて国防の前線に赴き、戦いの中で、野営のテントで蝋燭の灯りを頼りに、あるいは宮廷の自室で書き溜めたのが「自省録」となる。
本書は戦況や政局の困難を吐露した日記でも、自らの武勇や帝王学を論じた物でもない。皇帝が書いたものだと聞けば、偉い人が高いところから教訓を垂れているのではないかと思って敬遠することがいるかもしれないが、この本はそういう本ではなく、前後の文脈もなく、自分の思いを絞り出すように、ひたすら自分の内面を見つめ、戒め、己を律する言葉が綴られた手記、個人的なノートとなる。
アウレリウスは、皇帝の地位も、宮廷での華やかな暮らしも望んでいない。彼の心が求めていたものは、少年時代から深く傾倒していた哲学だった。皇位に就き、学問として哲学を探究する道は断たれてしまったが、多忙な公務の合間を縫って内省し、哲学の示すところを実践するよう自分に言い聞かせていたのである。
十二巻からなる自省録は、そうした折節の思索や自戒の言葉を書き留めた覚書となる。誰かに読まれること、あるいは読ませることを前提として書かれたものではない。彼はローマ人だが、本書はアウレリウスの母語のラテン語ではなく、ギリシア語で書かれている。テーマが整理されているのではなく、書きかけのような文章や、本からの引用、論理に飛躍がする文章もある。それにもかかわらが、脈々と伝承されてきたのは、その真摯な言葉が多くの人の心を打ったからに他ならない。
アウレリウスの言葉が我々の心に響く理由の一つは、等身大の自分を重ねて読むことができるところにある。
「もうお前は死んでしまうだろう、それなのに、心には表裏があり、平静でいられることもできていない。外から害されるのではないかという疑いは去らず、すべての人に対して親切にもなれない。思慮あることは正しい行いをすることであるとも考えていない。
お前がこんな目に遭うのは当然だ。今日善くなるよりも、明日善くなろうとしているからだ。」
「こんな目に遭う」というのが何を指しているのか分からないが、この言葉は、いつ何時人生が終わるか分からないのに、この先もずっと生きるかのように、よくなろうとする決断を先伸ばしにしている人には耳に痛いことばになるだろう。彼は自分が立派な人間だとは考えていなかった。自分が不完全であることを自覚し、迷いも弱さも正直に披瀝している。それを強い言葉で戒めつつ、人としてどうあるべきかという指針や理想を示してくれる。そうした理想を、不完全ながらも体現し、善き人になろうと頻悶、苦闘する過程を、アウレリウスは身をもって我々に示してくれる。
アウレリウスは次のようなことも言っている。
「お前自身に成し遂げがたいことがあるとしても、それが人間に不可能なことだと考えてはならない。むしろ、人間にとって可能でふさわしいことであれば、お前にも成し遂げることができると考えよ」
アウレリウスが依拠するストア哲学は忍従の哲学と言われることが多い。これは決して諦めるということを勧めているのではなく。どのようなことも、人間にはきっと乗り越えることができると上記の言葉は述べている。
また以下のようにも述べている。
「すべのものが儚い。記憶するのも、されるのも」
「すぐにお前は全てを忘れるだろう。そして、すぐにお前の全てが忘れ去られるだろう」
後世の我々にとって、幸いなことに、アウレリウスのこの予言はハズレ、忘れ去られるどころか、彼の名と言葉は時空を超えて多くの人の記憶に刻まれ、その心を照らし続けている。その理由は、普遍的な真理が「生きた言葉」で語られていること、とりわけ、時代や国・地域の違いを超えて、誰もが共感して読めること、その時々の「今」に通用する内容であることなどにあるということが言える。
彼が紡ぐ言葉、行間からにじむ苦悩、それでも前を向いて歩いていこうとする姿勢には、現代の世の中を生きていくためのヒントが散りばめられている。仕事に追われ、幸福を感じられない人には、哲学を愛しつつも政務に追われ、理想と現実の間で葛藤していたアウレリウスが自分に重なって見えるかもしれない。
裏切りや謀略に悩まされていた彼の言葉は、競争社会の中での不信と孤独に苛まれている人に寄り添い、励ましてくれるものとなる。「自省録」は、対立を否定し、協力して生きていくことを繰り返し訴えている。これは排他主義ではなく、利他主義が成長ある社会のために重要であることを示しているとも言える。
「お前は-」とアウレリウスが自身に語りかけた言葉は、読者である我々に向けられているようにも聞こえる。心に残る短い言葉もあれば、すぐには意味を捉えることが難しい記述もあるが、その真意読み解きつつ、幸福とは何かや、他者との共生する知恵や、困難との向き合い方等この本を読むことで得られるものが多くある。
以下に本書の内容を示す。
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