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サマリー
禅は大乗仏教の中の一つの実践方法であり、大乗仏教は、釈迦が説いた初期の仏教の教えに対して、より高次の境地を目指すもので、仏教の中でも特に深い哲学的・実践的背景を持つものとなる。
大乗仏教の中心的な教えは、菩薩道となる。菩薩道とは、一切衆生を救済しようとする慈悲の心を育み、自己を犠牲にしてその実践を続けることであり、これは、自己中心的な思考や行動を避け、他人に善意を持って接することや、他人を助けるために行動する「利他的な行為」を実践するものであるとも言える。この利他の考えの根本には、自己と他者との区別が曖昧になるという仏教の基本的な考え方があり、それらを実践するために、さまざまな経典を用いた教えや、観想的な瞑想や般若心経などの読誦などの修行を提供されている。
この利他的な行為は、自己の利益を最大化するための理論であるゲーム理論の観点からも「プリズナーズディレンマというモデル」として利他行為を行うことが最適戦略であることが証明されており、また実験結果からも、利他的な行動は社会的信頼を生み出し、長期的な利益をもたらすことが確認されている。つまり、仏教的な思想や実践は社会を幸福にする(利益を最大化する)する方策(戦略)の一つとなると言える。
ここではこの大乗仏教についての概要について「NHK100de名著 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した」をベースに述べている。
今回は仏教の始まりである釈迦の仏教(小乗仏教)から、大乗仏教の始まりの教えである般若経までを述べる。
大乗仏教と小乗仏教
仏教は、もとはインドで作られた、インドで様々な種類のお経が作られ、それが中国に伝わり、日本にも伝わってきたので、中国や日本でも様々なお経が作られ、それぞれを信奉する宗派がたくさん生まれている。
仏教の中に、小乗仏教と大乗仏教の2種類があり、小乗仏教は「限られた人しか救うことのできない小さな乗り物」、大乗仏教は「すべての人を救ってくれる大きな乗り物」意味すると言われている。小乗仏教は、今でもスリランカやタイ、カンボジア、ミャンマー、ラオスなどで信仰されており、大乗仏教は小乗仏教よりも500年ほど後に誕生した新しい形の仏教で、中国や朝鮮半島、日本など東アジアを中心に信仰されている。両者の大きな違いは、小乗仏教では出家して特別な修行に励んだ者だけが悟りを開くことができると考えるのに対して、大乗仏教では、在家のままでも悟りに近づくことができると考える点にある。また、この小乗仏教という呼び名は、大乗側からの見下した呼び名なので、今では上座部仏教と呼ばれており、上座部仏教と、その起源になった大昔のオリジナルの仏教には違いも多いので、オリジナルの仏教を「釈迦の仏教」と呼ぶこともある。同様に現在日本で広まっている大乗仏教も、ルーツである釈迦の仏教とは大きく異なっている。
釈迦の仏教
釈迦の仏教では出家修行を最重要視している。これは「出家してひたすら修行気励み、苦しみの源である煩悩を消し去ることでしか、人は真の安楽に達することができない」とお釈迦様自身が考えたからである。
ここでいう出家とは、財産や家族を捨てて「サンガ」と呼ばれる修行者集団に所属し、朝から晩まで瞑想を中心としたきぞしい修行生活を送ることを意味する。サンガでは生産的活動は一切禁じられていて、働くことはおろか畑を耕すことも認められていない。生きていくのに必要なものはすべて一般社会からの貰い物に頼って暮らすことになる。
「真の安楽」とは、悟りを開いて「涅槃」に到達することを指す。涅槃とは、自分の心の中の煩悩を全て断ち切ることであり、同時にその結果として、二度とこの世に生まれ変わらないことを意味する。
仏教では、この世界は「天・人・畜生・餓鬼・地獄」の五つ(後の時代に「阿修羅」が入って六つ)の領域からなり、あらゆる生き物は、この五つないし六つの領域内で延々と生まれ変わり死に変わりを繰り返すと考えられている。善行を積めばより良い世界に、悪行を犯せば悪い世界に生まれ変わるが、そのような延々と続く生と死の繰り返しを「輪廻」といい、涅槃とは、仏道修行によって輪廻を止め「二度と生まれ変わらない世界に行くこと」を意味する。
お釈迦様は「生きることは苦しみである」ととらえたため、輪廻が続くということは、永遠に苦しみ続けることを意味し、二度と生まれ変わらない世界に入ることを最上の安楽と考えた。また、そのような輪廻を止めて涅槃に達するための修行として、輪廻を生じる原因である「業(ごう)」のエネルギーを作り出している煩悩を、自力で消し去ることを行う。そのために、精神集中のトレーニングによって心の状態を正しく把握し、煩悩を一つ一つ潰すため、それまでの世俗の生活スタイルを離れて、修行だけに特化した生活、すなわち出家生活に入ることが必要になる。
つまり「釈迦の仏教」の最大の特徴は、何か外の力に救いを求めるのではなく、あくまでも「自分の力で道を切り開く」という天にある。
外部の不思議な力を拠り所と考えた大乗仏教
それに対して大乗仏教は、二度と生まれ変わることのない涅槃をゴールと考えた点は「釈迦の仏教」と同じだが、そこに至るための方法が異なる。
「釈迦の仏教」が自己鍛錬によって煩悩を消そうと考えたのに対して、大乗仏教では外部にわたしたちを助けてくれる超越者や、あるいは不思議なパワーが存在すると想定して、自分の力ではなく「外部の力」を救いの拠り所と考えた。
そうすると厳しい出家修行を行うよりも、不思議な存在との間にしっかりとした関係を築くことが重要になってくる。また外部の力に頼ることで悟ることが可能だとすると、当然ながら自己修練のための組織であるサンガも意義や重みがなくなってくる。そのため大乗仏教では次第に「在家信者でも悟りの道を歩むことは可能だ」という考えが前面に出てくるようになった。
大乗仏教の最初の経典 – 般若経
大乗経典の中で最古のものと思われているのは「般若経」 となる。また現在よく知られている「般若心経」は「般若経」のエッセンスをコンパクトにまとめたものとなる。般若経自体は大変種類が多く、完全な形で現存しているだけでも、サンスクリット語のもので十種類以上、チベット語訳のもので十二種類以上、漢訳のもので四十二種以上ある。
般若経は大乗仏教系の様々な宗派で広く唱えられているが、禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)と密教系(天台宗、真言宗)で特に大切に扱われている。逆に浄土真宗では唱えられず、日蓮宗・法華宗でも「法華経」だけを基本の教義としている。
般若経の大きな特徴は、「すべての人は過去においてすでにブッダと会っていて、誓いを立てている」と考える点にある。大乗仏教では自分がブッダになろうと思ったら、まずはとにかくブッダにあって「私もあなたと同じようなブッダになるように努力します」という誓いを立てなければならない。そしてそのブッダが「お前も将来、きっとブッダとなるであろう」と太鼓判を押してくれて初めて、正式なブッダ候補となり、修行の道に進むことが可能となる。
このようなブッダ候補生のことを「菩薩」と呼ぶが、「般若経」では「私たちはすでにブッダと出会って誓いを立てているのだから、菩薩である」と考えるものとなる。また「ブッダと過去に出会ったことにあなたが気がつかないのは、単に忘れてしまっているから」であり「般若経」を読んで、心が震えて有難いという気持ちになったら、それが過去にブッダと会って誓いを立てたという証拠であり、もし何も感じないなら、ブッダと出会っていないことになる」とされている。
また般若経には、これまでの仏教になかった「すでに私たちは菩薩としてこの世に存在しているのだから、日常の生活で善い行いを積み重ねていけば、それが悟りへのエネルギーとなり、やがてはブッダになることができる」という考え方が織り込まれている。釈迦の仏教では、出家修行の中で煩悩を断ち切ることが、悟りに至るための唯一の方法と考えられていたが、般若経では、日常の生活で善行を積み重ねていけば、悟りに近づくことができると変わってしまっているとも言える。
ここで注意しないといけないのは、修行で煩悩(輪廻)を断ち切るということと、世俗の世界で善い行いを積むということは全く別個の行為で、善行を積むことで来世は苦しみのない世界である「天」に生まれ変わるかもしれないが、その天も輪廻の一領域に過ぎず、たとえ点に生まれ変わったとしても、髪としての寿命を終えると、再び六道のいずれかに生まれ変わるだけで、輪廻を断ち切った「涅槃」の世界にいくことはないということとなる。
善行も悪行も同じ業であるととらえて、釈迦は「輪廻を断ち切り涅槃を目指すには、この世で善いことも悪いこともしてもならない」と言っている。これは、業を作るような、自意識に根ざした行動をせずに、ひたすら瞑想修行に励んで業のパワーを消して輪廻を止めよとも解釈できる。
これに対して「般若経」は「本来は輪廻を繰り返すことにしか役立たないはずの業のエネルギーを、悟りを開いてブッダになり、涅槃を実現するために転用することができる」と捉え直した点が釈迦の教えとは異なってくる。
釈迦の説いた「空」と般若経(大乗仏教)での「空」
「業のエネルギーを輪廻とは別の方向に向けること」を大乗仏教では「回向(えこう)」と呼ぶ。本来ならば不可能なはずの「回向」を「般若経」では可能としている。これは、「釈迦の仏教」すなわち「阿含経(あごんきょう)」と呼ばれる古い時代のお経が、業のエネルギーには輪廻を助長する働きしかないと考えていたのは、縁起と呼ばれる因果則の裏側に隠されたもっと崇高なシステムに気づかなかったためで、実はその因果則の裏には、善行でえられたエネルギーをブッダになるための力に振り分けることができる、より上位のシステムが隠されていて、そのシステムのことを「空(くう)」と呼び、「空」の理論を学び、それを理解した人だけが、日常的な善行のエネルギーをすべて悟りの法にふりわけることができると「般若経」では考えたためによる。
「空」という概念は「釈迦の仏教」にもあったが、「般若経」ではその同じ「空」という語を全く違う概念に置き換えることで、新しい仏教を産んだ。
釈迦の「空」はそれほど重視されていなかった概念だが、最古のお経と呼ばれる「スッタニパータ」には「<ここに自分というものがある>という想いを取り除き、この世のものは空であるとみよ」という形での「空」の表現がある。
釈迦の仏教ではこの世界をいくつかの方法で分類する。その一つが五蘊(ごうん)で、これは「わりわれ人間がどのようなものからできていて、どのような在り方をしているのか」を分析し、五つの要素に分けたものとなる。その要素を「色」「受」「想」「行」「識」という。そのうち「色」は我々を構成している外側の要素、つまり肉体を表す。残りの四つは内側(心の世界)を表すもので、「受」は外側からの刺激を感じる感受の働き、「想」はいろいろなことを考える構想の働き、「行」は何かを行おうとする意志の働き、「識」はあらゆる心的作用のベースとなる認織の働きとなる。
このほか「十二処」「十八界」などの様々な分類方法があり、こうした存在要素が複雑に関係し合いながら寄り集まり、定められた因果則によって刻々と転変することで、この世界が形作られていると結論づけている。
この分類に基づいて例えば「石ころ」が落ちていた時、普通であれば「意志」というものが実在していて、色や形はその属性だと認織するが、釈迦の解釈では、実在しているのは目や手が捉えた「いろ」や「かたち」「手触り」の方で、「石」というのはそうした要素を心で汲み上げた架空の集合にすぎないとした。
同様に人間も「認織」や「思考」「記憶」あるいは執着や怒りなどの「感情」や「感性」などの様々な神的作用のの集合体で作られ「私」という実態は存在しない虚像であるとしている。つまり書くとした実体はなく、「肉体」と「心の働き」が目や耳といった感覚器官によって連結され絶えず変化しながら、かりそめのまとまりをなしている、それこそが「私」であり、「この世のものは全て空であると見よ」とはそのような意味で理解することができる。
般若経での空
般若経ではこの釈迦の空の概念をさらに進めて、釈迦が存在すると考えた「五蘊」などの世界を構成する基本要素すらも「実在しない」と捉えている。
また釈迦はこの世の本質を「諸行無常」つまり「すべてのものはうつりゆく」と見抜いていたが、般若経」では「すべての基本的存在要素には、そもそも実体がないないのだから、それが生まれたり消えたり、汚れたり、綺麗になったり、増えたり、減ったりしている(ように見える)のもすべて錯覚である」と考えて「諸行無常」さえも否定している。
釈迦の仏教では、行為と結果の関係、つまり業の因果法則が存在し、そこから輪廻が生まれそれを断ち切る「悟り」を得るために特別な修行が必要であったものに対して、般若経ではそのような「業の因果性」すらも存在しないとして、この世はそうした理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いているとして、それが般若経での「空」であるとしている。
これらの解釈の進化で、これまで一部の修行僧か得られなかったブッダへの道(悟り)が、多くの皮脂が実践可能な形になっていった。これが小乗仏教から大乗仏教への変化となる。
唱えて、書いて、広めて
大乗仏教では、「空」の論理を理解した人だけが、日常的な善行のエネルギーをすべて悟りのほうら向けることができる。
般若経では布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つの行為を「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼び、回向に向かうための重要な修行と定めている。この中で最も重要なのが「般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)」と呼ばれる智慧の修行を極めることによって生まれる「完璧な智慧の体得」となる。すなわち、これこそが「空」を理解できる智慧を身につけることになる。
他の五つの修行、布施・持戒・忍辱・精進・禅定は、見返りを求めずに人と接し、自分を諌める姿勢と慈悲の心を持ち、常に第三者の目で自分を冷静にみつめよ、という意味なので「日々の暮らしの中で正しく生きていればそれでよい」ということになる。
般若経では、六波羅蜜の六つの修行の他に、「般若経を讃えること」が修行の一つとして挙げられている。般若経では「お経」そのもの(教えそのもの)がブッダだと考えてそれを「法身(ほっしん)」と呼んで、お経を讃えるという行為が、ブッダ自身を拝み、供養していると解釈している。また唱えるだけでなく写経する(書くこと)もブッダに触れて近づくことになると定義されている。
「神秘」の力
釈迦の仏教には、業や輪廻といった、現代社会では受け入れ難い概念も含まれているが、神秘的要素はほとんどなく、心の苦悩を自分の力で消したいと願う人たちにとっては、論理的かつ理性的なほぼ完璧な宗教となる。
しかしながら、そこには出家や修行という現実世界ではなかなか実現できないハードルが出てきてしまい。それらを乗り越えるために出てきた大乗仏教、般若経は人智を超えた神秘の力である「空」を新しく加えることで、一般の人々でもブッダになれるという「救い」を与えた。つまり、般若経が神秘の力を教えの中に混ぜたことで、釈迦の仏教が教えていた因果則は無化され、全てが漫然としたため、逆にそのことにより新たに救われる人が出てきたとも解釈することができる。
この神秘の力は、そもそも論理的なものではないため、具体的には説明することはできない。また神秘の力(大きな力の存在)を信じることでパワーをもらい、そのおかけで、自分の力で苦しみから逃れようとしても、一人ではどうすることもできない人を救うこともできるようになる。般若経では神秘の力を新しく加えたことで、新たな「救い」の要素を導入したともいえる。人は誰でも「ありえないことだけど、こうあってほしい」とか「実際には無理だろうけど、なんとかこうならないかな」と考えたりするものだが、何か不思議で超越的な力がこの世に存在すると思えば、そうした見果てぬ夢にも希望が持てるようになる。
次回は、般若経の50〜150年後に北インドで作られた「法華経」について述べる。
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