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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回はアイルランドを行く旅について述べた。今回は越前の諸道、福井県の旅となる。今回の旅は宝慶寺から始まる。宝慶寺は”道元禅師“でも述べたように、道元を慕って中国から来た僧、寂円が開いた寺となる。ひたすら坐禅を組み、道元の禅風を守り通した寂円のことを考えつつ、山深い地にある宝慶寺を訪れ、若い雲水が案内してくれた宝物館で有名な道元と寂円の画像を見る。その日は勝山の老舗旅館に泊まり、翌日は平泉寺を訪れる。中世に法師大名と呼ばれた平泉寺の興亡を思い浮かべつつ境内を歩き、さらに一乗谷の朝倉家の遺跡に赴き、信長に滅ぼされた朝倉義景に想いをいたす。丸岡城や三国港を経て、旅の最後に訪れたのは、越前陶芸村、そこで古越前の技法を見て旅を終える。越前の国(現在の福井県)が歴史に現れるのは、”街道をゆく 北国街道とその脇街道と古代日本の謎“にも述べている福井に住んでいた継体天皇が天皇家を継ぐ話からとなる。これは、古墳時代中期の越前(福井県)が、他の地方にくらべ、農業生産や鉄器生産、あるいは灌漑土木がさかんで一大勢力であったことを想像させると司馬遼太郎も述べている。
これは越前に中期古墳が無数に造営されていたことからも確認できる。
越前の諸道の旅は福井駅からスタートする。福井駅には様々な恐竜の巨大なオブジェが飾られている。
これは、福井県には日本最大の恐竜化石発掘現場があり、日本で発見された恐竜化石のうち、約8割が福井県で見つかっているという恐竜王国としても有名で、福井県で初めて発見された恐竜化石もあり、「フクイサウルス」、「フクイラプトル」、「フクイベナートル」、「フクイティタン」など、「フクイ」の名を冠した恐竜も多数存在しているからである。
その福井駅から最初に向かった場所は宝慶寺となる。
宝慶寺は山の中に佇む落ち着いた寺院であり、”道元禅師“でも述べたように、道元を慕って中国から来た僧、寂円が開いた寺となる。
道元は、同時代に全盛期となった”空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜“でも述べた浄土信仰の、他力本願(阿弥陀如来への信仰により人は救われる)の考え方を受け入れられず、仏は自分の中にあり修行によりそこに至る(悟る)という”大乗仏教と般若経“で述べた釈迦の教えに近いスタンスを取り、禅宗(曹洞宗)を立ち上げ、その総本山を福井の永平寺に建立した人物だが
道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化し、道元の教えを最も忠実に守った僧侶が寂円だったと言われている。
その後曹洞宗は様々な派閥に分裂を繰り返し、大本山も永平寺だけではなく、横浜市鶴見区にある總持寺
あるいは、創建に貢献した道了という僧が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に隠したと伝えられる同じく神奈川県(南足柄市)にある大雄山最乗寺(道了尊)などが造られた。
このようにして拡張を進め、現代では日本における単一宗教宗派としては最大となり、14,000を超える寺院を有し、さらに近年の学生駅伝でも注目を浴びている駒沢大学などの教育機関を多数持つ一大勢力の宗教組織となっていった。
宝慶寺の宝物館では道元禅師の肖像画(前述)を見ることができる。
その後山を降りて、勝山市に出て一行は「板甚」という料亭旅館に宿をとる。
翌日は勝山からタクシーで十数分の距離にある平泉寺(現・白山神社)を訪れる。
平泉寺白山神社は白山信仰の越前国側の拠点として、仏教僧の泰澄により717年に開山されたと伝えられ、後に比叡山延暦寺(天台宗総本山)の末寺となって栄え、明治時代の神仏分離までは仏教寺院霊応山平泉寺だった寺で、写真を見ても分かる通り、苔で有名な場所となる。
平泉寺は越前、加賀、飛驒の三国にまたがった白山に対する信仰から作られたもので、福井側の登山口として越前馬場(馬場は明治までは「広い道路」という意味)と呼ばれていた場所に建立されている。
この白山は前述のように泰澄により開山され元々は神を祀る場所であった、これが仏教の伝来により単に「神」と呼ぶより、仏教的世界観を持った言葉である「権現」とか「明神」と称する方が、普遍的価値が匂って、モダニズムが感じられるようになって、白山の神も白山権現と呼ばれるようになり、祭祀は仏教でおこなわれるようになり、寺が中心になり、僧と僧兵がそこに住むようになった。
そこで寺領を管理するものが現れ、寺領の防衛や管理のために心が猛々しく腕力の強いものが集まり、農民を搾取していった。さらに政治的な強みを持つため、”街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“で述べている比叡山延暦寺(天台宗総本山)の傘下に入り、近隣の地主も領土安堵のため、墾田を白山に寄進したという形にして、自らも僧名を名乗るなどして、最盛期には領地は五万石、動員力は二十万人という大名なみの勢力となっていった。このような形は日本全国で見られ、”街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆“で述べた和歌山の根来寺も同じようなしくみで巨大になっていったものと考えられている。
このように権力を誇った平泉寺も、天正二年(1574年:織田信長の勢力が拡大していた時期)近隣の加賀の国で起きた一向一揆と呼応するように、搾取していた農民の一揆に合い滅亡する。この出来事により、地名が「勝山」となった。
その後、織田信長に滅ぼされた朝倉義景の居城であった一乗谷の朝倉家の遺跡に赴き、
丸岡城や三国港を経て、越前陶芸村で古越前の技法を見て旅を終える。
古越前は愛知県常滑市で焼かれた常滑焼の流れを汲むもので、平安から室町時代まで作られその後一旦途絶えた「日本六古窯」の一つに数えられる焼き物となる。司馬遼太郎によると日本独自の侘び寂びの美意識により「土くれ」に近いもので、欧米の美意識とは一線を画し、たとえば、これをベルサイユ宮殿においても、全く映えないだろうと述べている。
次回は愛知県 名古屋市近辺の旅について述べる。
コメント
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