街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第16巻 叡山の道

前回は奈良県・大和・壺坂の道について述べた。今回は、最澄が開き、道元、法然、親鸞らの諸派を生んだ中世最大の学林である天台宗・比叡山について述べる。比叡山の旅では山へのいくつか登り口で麓の文化を探り、東麓の町・坂本では、近江穴太衆の高い技術が反映された石垣に着目、さらに最澄が登ったとされる本坂に近い日吉大社に詣で、比叡山と日吉大社の歴史的つながりを考える。続いて円仁入唐に思いをはせて円仁ゆかりの赤山禅院を訪れる。更に比叡山西麓の坂・雲母坂付近にある曼珠院門跡を訪れる。比叡山山頂を訪れた司馬遼太郎は、千日回峰行の本拠地・無動寺谷を訪れ、最後に天台宗の秘儀・法華大会の儀式を拝観する。

最澄は767年に近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として生まれたとされている。早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となっている。

当時の仏教は、世界の成り立ちを説明し国のあり方に根拠を与える国教としての役割を持ち、それらを明確に形とするため全国に国分寺を建て、奈良の東大寺に全ての国分寺を統括する大仏を建立していた。その中で僧侶はそれらを研究し広める公務員という立場であり、僧侶になるには国が認めた寺院での認定が必要であった。

最澄は同時期に真言宗を広めた空海と比較されることが多いが、司馬遼太郎によると空海は天才肌でかつ自己表現がうまく、最澄は秀才系で自己を売り込むことも少なかったらしい。2人は延暦23年(804年)、同時期に遣唐使節に随う留学生として海を渡ったが、同じ船ではなかったため、実際に出会うのは5年後であったとのこと。

それぞれの立場も異なり、当時、最澄は仏教界の若きリーダーで、国費で通訳を連れ、1年で還って来られる還学生(げんがくしょう)という立場にあったのに対して、空海は私費で密教を究めようとする学問僧で20年の滞在期間が義務づけられていた。

仏教が国教として広まった後、当時の権力者のブームは密教となっていた。

密教のニーズが高まったのは、権力者(貴族)たちが、権力闘争の裏側に蔓延る呪詛、怨霊、祟りから身を守りたいという願望を持ち、密教に代表される仏教や陰陽道や呪術によってそれらを得たいと考えていたためであったらしい。

そのようなニーズを敏感に察知し、空海は唐に入り、密教の第七祖である唐長安青龍寺恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事し、20年の留学予定を短縮して2年で帰国した(短縮の理由は留学の滞在費がなくなったこととしたらしい)と司馬遼太郎は述べている。(空海の生涯や教えに関しては”街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“も参照のこと)

密教は”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“でも述べているように大乗仏教がインドのヒンドゥー教の影響を受けてできてきたもので、インド土着の様々な伝承がベースとなっているものとなる。そのため呪術などの現世利益の教えが多く入っており、それらが当時の世相・ニーズとマッチしたらしい。

これに対して、最澄は中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をし、その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受ける等当時の仏教を広く学び日本に持ち帰っている。

これまで奈良で行われていた仏教(南都六宗)の考え方では「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」とされ、仏になれるものは生まれつき決まっているというインドのカースト制に影響を受けた思想であったものに対して、「すべての人が仏になれる」と説く”般若経の教えにモデルチェンジを加えた法華経“でも述べている『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとして、最澄が比叡山に起こした天台宗は、総合的な仏教を学習する人材の養成の場としての役割を担うこととなった。これは現在で言う総合大学のようなものであったらしい。

実際にその後現れた”道元禅師“で述べた道元や、”空也、法然、親鸞、一遍 浄土思想の系譜“で述べている法然や親鸞などの僧侶はまず比叡山で修行(学習)を行い、その後独自の宗派を立ち上げている。

街道をゆくでは、比叡山の麓にある日吉大社を訪れている。

日吉大社は、全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮であり、その歴史は古く、712年に編纂され日本最古の歴史書である『古事記』に「大山咋神(おおやまくいのかみ)、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」と、記載がある神社となる。 この“日枝の山”が、後の比叡山となっていく。

比叡山は平安京に遷都後は、都である京都の鬼門・北東にあたり、鬼門除けや災難除けとして崇敬され、日吉大社は、平安時代に最澄が比叡山に延暦寺を建立した後、地主神とし、比叡山と天台宗の守護神とされている。

日吉大社を訪れた後は、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“や、”パラレルワールドの概念を導入した浄土教と阿弥陀仏の力“でも述べている円仁ゆかりの赤山禅院を訪れている。

円仁は最澄の弟子であり、最澄の時代に空海の真言密教に押され衰退しかけていた天台宗を立て直すため、唐に赴き密教を学んで天台宗を密教化し、天台宗の勢力を持ち直した僧侶となる。

また円仁は”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“や、”街道をゆく 羽州街道-山形の道“にも述べているように、日本各地に天台宗ゆかりの寺院を建立したことでも有名である。

赤山禅院の赤山は、円仁が唐にいた際に滞在した禅院のあった場所の地名にちなんだもので、円仁自体は建立を果たせないままに没したが、その遺言によりその弟子である安慧が建立したものとなる。

街道をゆくの旅では、この後比叡山西麓の坂・雲母坂付近にある曼珠院門跡を訪れ、さらに千日回峰行の本拠地・無動寺谷を訪れた後、天台宗の秘儀・法華大会の儀式を拝観して終える。

次回は北海道の北東部の海辺に、謎の海洋漁労民族「オホーツク人」を尋ねる旅となる。

コメント

  1. […] 次回は、最澄が開き、道元、法然、親鸞らの諸派を生んだ中世最大の学林である天台宗・比叡山について述べる。 […]

  2. […] 最澄と天台宗 […]

  3. […] 「街道をゆく」第38巻より。 前回は、比叡山への旅について述べた。今回は北海道の北東部の海辺に、謎の海洋漁労民族「オホーツク人」を尋ねる旅となる。今回の旅のスタートは2部に分かれる。最初の旅は、札幌の北海道開拓記念館から、まず網走に向い、網走観光ホテルに宿泊して、道立北方民族博物館、能取湖、サンゴ草の広がる卯原内、サロマ湖、モヨロ貝塚、網走市郷土博物館を尋ねる。第二部は札幌から特急列車で6時間の稚内へ、サロベツ原野を目にしつつ南稚内に到着。飲み屋を訪れ、水蛸のしゃぶしゃぶを堪能した後、抜海岬、納沙布岬、声岬と岬めぐりをして、宗谷丘陵を通って最北端の宗谷岬へ、間宮林蔵の碑を見て、北方40kmの樺太と韃靼大陸に想いを寄せる。猿払村、浜頓別、枝幸町とオホーツク海沿岸を南下し、目梨泊遺跡の発掘現場を訪ね、紋別市のオムサロ遺跡公園、オホーツク流氷科学センターをめぐってから網走へ、小清水、斜里町を経て旅の最終地である知床半島に向かう。 […]

  4. […] “街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“でも述べた比叡山は、最澄があらゆる仏教の教えを統合するものとして「法華経」を位置づけ、このお経を中心に仏教全般を学ぶための […]

  5. […] 代、唐から入ってきたと言われており、当時遣唐使と共に唐に渡った”街道をゆく 叡山の諸道(最澄と天台宗)“に述べている最澄が天皇に茶を立てたという記録や、”空海と四 […]

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