日本橋と江戸四宿

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日本橋

東京都中央区に位置する日本橋は、徳川家康が幕府を開いた1630年に架けられたと伝えられており、架けられた翌年、幕府直轄の主要5つの陸上交通路(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道道)の起点と定められたものとなる。

そのような交通の要所であった為、日本橋には物流・販売の拠点が集まり、江戸の中心市街地となっていった。”浮世絵と新版画 – アートの世界の古き良きもの“にも述べている江戸時代の風俗画であった浮世絵には、この日本橋の賑わいが多く書き残されている。

また、現在は、1950年代に東京オリンピックのために上部を塞がれた形となっているが

首都高の地下化が進められており、2040年代には、上部の高架が撤去され、以前の日本橋の姿が蘇ることが期待されている。

江戸四宿(千住、板橋、内藤新宿、品川)

その日本橋から出る一番最初の宿場町、日光・奥州街道の千住(下図右上)、中山道の板橋(下図左上)、甲州・青梅街道の内藤新宿(下図中央左)、東海道の品川(下図下)の四つは江戸四宿と呼ばれていた。これは江戸から各街道への出入口にあたる宿場となる。 

江戸時代には前述の日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。 これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(めしもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。 規模は同じ天保15年頃の宿内人口と家数を比較して大きいほうから、千住宿(9,556人、2,370軒)、品川宿(7,000人、1,600軒)、内藤新宿(2,377人、698軒余)、板橋宿(2,448人、573軒)となっている。

以下それぞれの宿場について述べる。

<千住>

千住は日光・奥州街道の宿場町で、その名は1327年嘉暦2年)に新井図書政次が荒川で網で千手観音像を拾いこの地を千手と呼んだこと、あるいは足利義政の愛妾千寿の出生地であった、また千葉氏が住んでいたからなどの由来から来ているとされている。

現在の地名は東京都足立区千住町でかつての宿場町は下町の商店街となっており、東京都内でも比較的家賃も安い暮らしやすい街としてファミリー層にも注目されている場所となっている。

千住が江戸の北の入り口として重要視されており、594年、徳川家康が墨田川に架けた最初の橋が千住大橋であった。千住は日光街道奥州街道宿場として発展した。千住宿は幕府公認の飯盛女が置かれていた遊郭もあり、岡場所としても賑わいも見せていた。当時の隅田川の渡し船の船頭が唄った「千住節」の中に

 千住女郎はいかりか綱か 上り下りの舟とめる

という一節があり、多くの船が行き来していたことがうかがわれる。

また江戸市街の喉もとで奥州街道水戸街道の始点として、日光東北方面への旅人で賑わったといわれており、”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べている松尾芭蕉奥の細道は、元祿2年(1689年)深川の芭蕉庵を出発し、「門人に見送られ、彼等と千住で別れる時に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠み、それを「矢立てのはじめ」として、そこから旅が始まる」と記述されているまた、千住は練馬ダイコン目黒タケノコ尾久ゴボウなどと並んでネギの名産地として有名であった。

<板橋>

板橋宿(いたばししゅく)は、江戸時代に整備され、 中山道六十九次のうち江戸日本橋から数えて1番目の宿場となる。 同時に、川越街道川越児玉往還)の起点でもある。所在地は、江戸期の地名としてはには東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村となる。

現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿板橋1丁目、3丁目にあたる。前述の千住と同様に都内の中では家賃が安い方で、さらに多くの公園があり緑が多い街としても知られている。

千住は、江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」の内部、すなわち、「江戸」として扱われていた場所となる。

板橋宿は江戸四宿の中では最下位ながら、その繁栄ぶりは中山道中有数であった。 なお、板橋宿は150人もの飯盛女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。 幕末の戊辰戦争の際、中山道から江戸攻撃に進軍中であった官軍は、天璋院からの書状によりここで停止している。

<内藤新宿>

内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つであり、”街道をゆく – 甲州街道と江戸幕府“でも述べている甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。

現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目・三丁目の一帯にあたり、東京の中でも渋谷に並ぶ繁華街となっている。

元々の甲州街道最初の宿場は、慶長7年(1602年)に設けられていた高井戸宿であったが、日本橋から約4里(約16km)と遠く離れ、東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たな状況であった。

幕府成立より約100年ほど経つと、江戸の発展に伴い甲州街道の通行量も増加を続けており、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であったことから、高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 – 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出て、日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。宿場予定地には信濃国高遠藩内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。

新しい宿町を作るための上納金が5600両課せられていたため、浅草商人はこの地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画を立てたとされる。

内藤新宿は玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町(中町)・下町に分けられていた

<品川>

品川宿は江戸4宿の中で最も古くから栄えた宿となる。品川湊は現在から1000年ほど前の平安時代には海路の施設として利用されており、”街道をゆく – 三浦半島記“にも述べている鎌倉への幕府設立により関東一円が発展し始めることで、武蔵国の海の入り口となる品川は関東における物流の拠点となっていった。

現在の場所は、東京都品川区内で、北は京急本線北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がる場所となり、品川駅の周辺はオフィスビルが立ち並ぶ近代的な場所となっている。

品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、他の江戸四宿と比べて旅籠屋の数や”大名行列“でも述べている参勤交代の大名通過の数が多かった場所でもある

品川は岡場所としても栄えており、更に東は海での潮干狩りや船遊び、西は山が迫り桜やもみじが楽しめる江戸庶民が遊びにくる海山のレジャー基地でありグルメの街でもあった、さらに赤穂浪士の討ち入りで有名な泉岳寺や、”空也、法然、親鸞、一遍 – 浄土思想の系譜“でも述べている浄土宗の大本山である増上寺、愛宕神社、高輪神社などの寺社街でもあったことから様々な行事も行われ「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄していた街となっていた

浮世絵はそうしたレジャーや流行情報のチラシ、ポスターのような役割を果たしており、特に品川宿の絵はよく売れ、多くの絵師が品川宿の様子を描いている。

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