街道をゆく 佐渡の道

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第10巻 佐渡の道

前回南蛮のみちとして、スペイン/ポルトガルを巡る旅について述べた。今回は新潟県佐渡島となる。

佐渡島は、新潟県の西部に位置する島で、全域が新潟県佐渡市に属し、佐渡弥彦米山国定公園佐渡ジオパークに含まれる。人口は52,135人。 有人国境離島法に基づく「特定有人国境離島地域を構成する離島」に指定されている。

本土との最短距離約30kmで、島の面積は約855平方キロメートル、東京23区の約1.5倍の大きさであり、全周は約200kmあって、”トライアスロンとハワイ島とアイアンマン“で述べたトライアスロンアイアンマンレースの自転車コース(180km)とほぼ同じ距離を持つことから、1989年より20年以上続く佐渡国際トライアスロン大会が開かれる場所となる。

歴史的観点から見ると、遺跡の出土品から、佐渡には、1万年前から人が住んでいたことがわかっており、日本最古の歴史書である「古事記」の国生み神話には大八島の7番目として登場し、「日本書紀」の同じ神話には「億岐州」と「佐度州」が双子として5番目に登場する古い島であることがわかる。

奈良時代にすでに一国とされ、流刑地に定められた佐渡は、722年に皇室批判を行った万葉歌人の穂積朝臣老を始めとして、1221年に承久の乱で敗れた順徳上皇、1271年に鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人、1434年に時の将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥など、中世までは政争に敗れた貴族や知識人が流される島となっていた。

また、平安時代後期の「今昔物語集」にも記録されているとおり、昔から金が採れる島として知られていた佐渡は、江戸時代に入ると、その有望性を見出した徳川家康が幕府直轄(天領)として本格的に金銀山開発を進め、採掘された金や銀が江戸幕府の財政を支えた。

そのような佐渡島の旅は、熱串神社から始まる。

熱串神社は、佐渡島のくびれている部分の本州側(上記の地図だと一番右端の星にあたる)の両津港から2kmの場所にある水田の中に鎮座している。境内左には趣のある藁葺き屋根の能舞台が建ち、正面にはドッシリと落ち着きのある拝殿、その奥にやはり藁葺きの屋根だけが見える本殿が建っている構成の神社となる。

この神社は平安時代から続く古い神社であったらしい。佐渡島は、水田も多くあり、また金山もあったことから古くから多くの人が住み、生活水準も高く、至る所で能が行われていたらしい。

ここから、司馬遼太郎一行は、島の中央のくびれ部分の反対側にある佐和田/真野の方向に向かう。佐和田佐渡陸上交通の要であり、経済の中心で、先述の佐渡国際トライアスロン大会のスタート/ゴール地点でもある。一方、真野はかつて佐渡国の国府が置かれていた歴史のある町となる。

これらの町に向かう前に一行は、二宮神社に立ち寄る。ここは、もとは順徳上皇の第二皇女・忠子女王誕生に際し鎌倉幕府によって築かれた仮殿の場所で、野菖蒲が咲き乱れる様子を見た順徳上皇が菖蒲殿と命名された場所となる。順徳天皇は”街道をゆく – 三浦半島記“で述べていた鎌倉幕府に対して起こした承久の乱で敗れて佐渡に配流にされた天皇であり、そのまま島で崩御している。

二宮神社でも、熱串神社と同様に藁葺き屋根の能舞台があり、現在でも能が演じられている。

二宮神社から、一行は北上し相川地区に向かう。相川地区佐渡金山があることでも有名な場所となる。佐渡金山のシンボルとなっているものが道遊の割戸となる。

道遊の割戸は、佐渡金山の中でも開発初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘り跡であり、巨大な金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になっているものとなる。この山頂部の割れ目は、幅約30m、深さ約74mにも達している。

金は、古代より取れることは理解されていたが、貨幣としての価値は認織されておらず、中尊寺金色堂や金閣寺のように装飾の意図で使われることが多かった。これに対して、街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“や”街道をゆく 島原・天草の諸道と日本におけるキリスト教“で述べている南蛮文化(ポルトガルやスペイン人)の到来により、金の貨幣価値が大きくクローズアップされ、金山が掘られるようになっていった。

佐渡においても当初は砂金を集めることが主であったものが、関ヶ原の合戦で勝利して徳川幕府を開くことに成功した徳川家康佐渡金山に注目し、大々的な採掘を開始し、最大時には年間400kg、トータルで40tの金を算出することとなったらしい。

当時の山の中を掘っていく採掘手法は非常に劣悪で、炭鉱作業者は三年も生きられなかったらしい。そのため、ほとんどの作業者は江戸に行き着いた無宿者と呼ばれる人別帳から名前をはずされた無戸籍者が捕まり、定期的に送り込まれていたらしい。それらの様子は佐渡金山展示資料館で人形を使って再現されている。

佐渡金山の後は、佐渡島の南の方向に進み、新潟直江津と航路が結ばれている小木港に向かう。小木港江戸時代には佐渡金山の金銀輸送により繁栄し、また”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べた日本海航路の寄港地ともなったいた。

司馬遼太郎はここから海に出て、佐渡島を眺めている。

島に戻った一行は、最後に真野地区の大倉谷で倉谷のおおわらじを眺めて旅を終える。倉谷のおおわらじは、正月に巨大わらじを作り、早春に集落の両端に吊るす風習で、この大わらじは「この村にはこんな大男がいるぞ」と誇張し、禍や悪人除けとする一種の道祖神となる。道祖神は”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べているが、村の守神として村の中心、道の辻、三叉路に立っているもので、日本土着の神として最も身近なものとなる。

次回は今回の旅は青森県の旅について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく 佐渡の道 […]

  2. […] 街道をゆく第41巻より。 前回は、新潟県佐渡の道について述べた。今回の旅は青森県。縄文の昔に「まほろば」として栄えた本州最北端地・青森を歩き、風土に即した生活は何かを問う […]

  3. […] 今回の旅は新潟となる。新潟は本州の中央、日本海側に位置し、”街道をゆく 佐渡の道“で述べた佐渡島を擁する。近代以前の日本は農業国であり、稲作に適した広大な越後平野 […]

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