街道をゆく – 三浦半島記

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第42巻 三浦は半島記

前回北国街道とその脇街道について述べた。今回は三浦半島記について述べる。

三浦半島記

今回の旅は、神奈川三浦半島を中心に、時代的には平安末期から鎌倉時代戦時中、またロケーション的には三浦半島を中心に、伊豆半島房総半島にについて述べられている。

今回は三浦半島ということで、司馬遼太郎磯子の丘の上にあるプリンスホテルに泊まっていたらしい。

現在はこのホテルはなくなっており、高級マンションが建っている。三浦半島と言えばまずは鎌倉であり、話は鎌倉幕府成立の源頼朝の話から始まる。

鎌倉幕府の成立の話となるため、三浦半島だけではなく、伊豆や房総半島の話も出てくる。伊豆では頼朝がしばしば参詣した熱海伊豆山権現の話となる。

伊豆山権現は小田原方面から熱海に向かう道沿いから向かうことができる。伊豆山権現に関しては、北条政子平氏一門である平兼盛の所に嫁入りさせられそうになった時に、親に逆らい伊豆山権現に潜んでいた源頼朝の元に向かい自分の意志で夫婦になった逸話が述べられている。

次に三浦半島の豪族である三浦一族について述べられている。まず最初に向かったのが、三浦半島を見下ろす大楠山となる。大楠山は逗子駅からバスで25分の前田橋バス停」から80分程度で登れるハイキングコースでもある。

三浦半島の三浦は元々、「御浦」(みうら)と呼ばれている場所で、三浦氏はその地名を名字として採用したらしい。みうらという地名が現れるのは日本書紀で、持統天皇の時代に御浦を管轄している国司が、赤いカラスを二羽献上したとの記述から始まる。

三浦半島では菜の花が有名で、横須賀にあるソレイユの丘にも美しい菜の花畑があり

また大楠山から麓の秋谷に降りてきて、三浦大根(三浦半島の特産品で、根は円柱柱形をなし、尻まで肉付きがよく、甘味があり、主として煮て食べる)を食べている。

秋谷は、戦国時代伊勢新九郎(北条早雲)によって三浦氏が滅ぼされた戰場のあったところでもある(最終的に滅んだのは三浦半島の先にある油壺)。現在では富士山を眺める長閑な海岸の街となる。

鎌倉時代の三浦一族の長である三浦義明は別名三浦大介と呼ばれていたらしい。元々三浦一族の長は国司の官名として介(すけ)を名乗っていたのが、義明だけが自分は大介であると称していたとのこと。その三浦氏の居城があったのが、今の横須賀市の衣笠山となる。春には桜の名所となる自然豊かな場所らしい。

三浦氏の話の後は、源頼朝の鎌倉幕府成立までの話が続き、舞台は鎌倉に移る。まずは鎌倉の中心である鶴岡八幡宮について述べられている。

八幡宮は、元々豊前(大分県)宇佐で渡来人が奉じていた神で、奈良時代奈良の都に入って東大寺の鎮守となり、地名をとって手向山八幡宮とよばれ、奈良の鎮護をなしていた。やがて都が京都に移ると、その南郊に石清水八幡宮が造宮され、皇室にとって伊勢神宮とならび二大宗廟となっていた。さらに、清和天皇からの流れから源氏の氏神となっていった。

特に前九年後三年の役での奥州平定で活躍した源義家が石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家とよばれ、世間ではこの神を武神と思うようになっていった。さらに義家は鎌倉に館を持ち、由比郷に八幡宮を祀っていた。頼朝の父義朝も、京に常在しながら、鎌倉に館を持ち、由比にあった八幡宮を修復し、信仰していたとのこと。

頼朝は鎌倉入りすると、すぐに由比郷の八幡宮に参拝し、これを現在の鶴岡八幡宮の地に移すことを決め、新造宮であるため”若宮”と呼んだ。さらに由比ケ浜から鶴岡八幡宮に向かう大きな道路(若宮大路)を作った。

さらに、鶴岡八幡宮の東の山麓に頼朝の屋敷兼役所(幕府)を現在のJR辻堂駅北方に居を構える大庭平太景義に命じて作らせている。

さらに、話は「吾妻鏡」で述べられている西行法師と頼朝の出会いと「とはずかたり」に述べられている化粧坂のエピソードに触れている。とはずがたりは京都の公卿の娘が出家して旅に出た日記がつづられているもので、その尼僧が鎌倉に入る前に、江ノ島を訪れて一泊し(江ノ島の弁財天も頼朝により祀られている)、極楽寺を通って鎌倉に入り、若宮大路を抜けて鶴岡八幡宮に向かう話が記述されている。

次に、司馬遼太郎たちが向かったのが、鎌倉から横浜方面(六浦朝比奈)に向かう山道の途中にある十二所神社になる。ここには鎌倉に入るための7つの切り通しのうち、古くからの姿が残る朝比奈切り通しがある。

ここは、鎌倉の中でも豊かな自然を感じられるところであり、ハイキングやMTBでのトレッキングコースにもなっている。次に一行は朝比奈切り通しを抜け、六浦を経由して金沢八景/文庫に向かう。金沢文庫北条実時が設けた文庫で、武家の文庫としては最古のものとなる。現在では「神奈川県立金沢文庫」という博物館となっている。金沢八景歌川広重による全8枚の浮世絵シリーズ「金沢八景」でも有名な場所となる。

特に有名なのは雨中を描いた小泉夜雨であろう。

三浦半島を横浜まで横断して、時代は幕末/戦時中に移り、舞台の中心は横浜/横須賀となる。横須賀三笠公園に向かうところで旅は終わる。

次回神戸散歩について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく 三浦半島記 […]

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