大名行列

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大名行列

映画化もされた浅田次郎による一路などの時代小説で取り上げられている大名行列(だいみょうぎょうれつ)は、大名が公用のために随員を引き連れて外出する際に取る行列のことを指し、参勤交代における江戸領地との往来がその典型的な形態となる。

大名行列は本来、戦時の行軍に準じた臨戦的・軍事的な移動形態(帯刀する刀の長さも通常の長さより大きなものでもよいなど)であったが、江戸時代の太平が続くと次第に大名の権威と格式を誇示するための大規模で華美なものに変容していった。その背景には、徳川幕府が大名行列のために出費を強いることで諸大名が経済的実力を持つことを抑制しようとする政治的意図もあったという説もあるが、本来の目的は将軍への服従を示す儀式であり、大名側で忠誠心や藩の力、権威を誇示するために行列を大規模にする傾向が見られたものでもある

参勤交代などの幕府の公用のために行なう大名行列は幕府によって人数が定められており、時代によって多少異なるが、1721年(享保6年)の規定によれば、10万石の大名では騎馬の武士10騎、足軽80人、中間(人足)140人から150人とされた。そして諸大名は、自らの体面を守り、藩の権勢を誇示するため、幕府に義務付けられた以上の供を引き連れ、行列の服装も贅を凝らしたものとなる傾向があった。

例えば、江戸時代の大名としては最大の石高を持つ102万石の加賀藩では最盛期に4,000人に及び、3つのルートを天候や他の大名との調整のために使い分け、約4000人の家臣を引き連れ、片道約6000両(現在の換算で5億円)をかけて行っていたとの記録が残っている。それらの金が毎年、途中で落とされるため、ある意味現在の公共事業のように、日本全国での経済効果は計り知れないものがあった。

このように、長大かつ華美に走った大名行列は、大名家にとっては実際に財政的な負担となり、次第に藩の財政を圧迫していき、逆にそれらの金が町人に移ることとなり、”浮世絵と新版画 – アートの世界の古き良きもの“で述べている浮世絵や、”花火の歴史と江戸の花火と玉屋と鍵屋“で述べている花火などの江戸中期の町人文化が花開いていくこととなる。

千野隆司による時代小説”おれは一万石“では、弱小大名が商人への借金に苦しみながら、大名行列の費用を苦労して捻出していく姿が描かれている。

大名行列に大名に付き従う大名行列の随員には、騎馬・徒歩の武士をはじめ、鉄砲を携えた足軽、道具箱を持つ中間(ちゅうげん:武家の召使)や持ち、医師など大名の側近くに仕える者達がいた。また、彼らの衣装にも気を使い、毛槍(けやり)や馬印(馬標)や家紋など大名ごとに特徴があるアイコンを掲げていたため、それらがまとめられた「大名武鑑」という書物も作られ、それを見ることで、どこの大名か分かるようにもなっていた。

これらの大名行列の随員の内3分の1は、実は臨時雇いのアルバイトで「通日雇」(とおしひやとい)と呼ばれ、武士ではなく、「六組飛脚問屋」という斡旋業者に派遣された労働者で構成されていた。これらは主に荷物持ちとして雇われていたが、例外もあり、大名行列で特に目立つ毛槍を持つ役目には、身長の高い美男子が選ばれ、日給も荷物持ちの2倍以上で、現代のお金に換算して15,000円ほどだったと伝えられている。

このような日雇いを雇いつつやりくりしながら大名行列を行う様子は、映画化もされた超高速!参勤交代でも描かれている。

大名行列が道を通るとき、居合わせた庶民は道を譲ることになっていたが、時代劇を見ていてよく出ている道端での平伏は、将軍家と徳川御三家尾張藩紀州藩の行列だけであった。また、「下にー、下に」という掛け声も、一般大名の行列で使われることはなく、「片寄れー、片寄れー」または「よけろー、よけろー」と呼びかけるのが基本で、庶民は脇へよけるだけで良く、立ったまま行列を見物していた。むしろ庶民にとって大名行列は一種のエンターテインメントであり、各藩もこうした庶民の期待に応えるために大名行列を大きく華美にしていったという側面もあったとも言われている。

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