花火の歴史と江戸の花火と玉屋と鍵屋

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花火の歴史

花火の原型といわれる『のろし』の歴史を辿ると、古代インドやギリシア、ローマといった紀元前にまで遡るといわれている。中国の薬を作る錬丹術師によって火薬は偶然発明され、その後、火薬は軍事技術者への手に渡り、武器に使用されるようになる。南宋時代には爆竹などの花火が市場に出ていたともいわれている。

街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“や”街道をゆく 壱岐・対馬の道“で述べた元寇では、宋を倒して中国を統一した元の日本への侵攻で、主に威嚇の目的で使用された火薬を使ったロケット花火や、空中で爆発し破片を飛散させる「てつほう」とよばれる炸裂火器が用いられ、日本の武士が恐れ慄いたことが記録に残されている。

十三世紀には商人を通じて火薬はイスラム諸国に伝わり、武器としても使用されるが、花火としても使われるようになめ。現在のような花火は十四世紀後半にイタリアのフィレンツェで始まり、すぐに王侯貴族の間で花火は広がり、結婚式や戴冠式などで打ち上げられるようになった。

日本では、”街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“でも述べているように、16世紀にヨーロッパより伝来された鉄砲により武器として利用され始め、さらに花火が鑑賞されるようになったのは江戸時代となる。これは徳川家康が中国人によって打ち上げられた花火を見たことがきっかけで、それにより将軍や大名の間で花火が流行し始める。

家康が見たのは竹筒に火薬を詰めて火を噴くだけのもので、三河地方に残る「手筒花火」はこの名残だといわれている。

江戸の花火

東京で有名な花火大会に「隅田川の花火」がある。これは江戸時代に行われていた花火大会に由来するもので、さまざまな浮世絵にも残されているものとなる。

歌川広重「名所江戸百景 両国花火」

街道をゆく 本所・深川界隈“にも述べているように、江戸初期は、防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認められておらず、その結果隅田川から西の領域にしか住民はいなかった。それに対して、1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出す災害が起き、事態を重く見た徳川幕府は、防火・防災目的のために架橋を決断、両国橋等の橋がかけられ、架橋後は市街地が拡大され本所深川方面が大きく発展した。ちなみに「両国」の名前の由来は、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことからつけられたと言われている。

江戸時代の有名な花火師として鍵屋弥兵衛がいる。弥兵衛は江戸初期、徳川家光の時代の奈良県の出身の花火師で、奈良にあった火薬製造所で火薬扱いの技術を身につけ、桜で有名な吉野川の河原に多く生えている葦の茎に火薬や火薬球をつめた手持ちの吹き出し花火を考案「火の花」「花の火」「花火」と称して売り出し、それが評判を得て飛ぶように売れるようになったことから、江戸に出て日本橋横山町に花火屋「鍵屋」を開いたと言われている。

歴史の文献によると「花火師鍵屋弥兵衛本丸御用達となる」とされており、幕府御用達の花火師になっていたようで、他の花火師に比べてその技術が高かったことが伺われる。

この時代の江戸では「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、花火による火事が多くなったせいか、慶安元年(1648年)には「町中にて鼠火りうせい(流星)その外花火の類仕間敷事」と、町中における花火の禁令が出ていた。

享保17年(1732年)、大飢饉(享保の大飢饉)の影響か、江戸でコレラが流行し大勢の死者が出て、その慰霊、悪疫退散のために両国川下で水神祭が催され、同時に隅田川両岸の水茶屋でも5月28日に川施餓鬼を催し、死者の追善供養が行われた。この事にちなみ、翌年の享保18年には5月28日に両国川開きが行われ、8月28日までの3ヶ月間、毎夜さまざまな花火が六代目鍵屋弥兵衛によって打ち上げられるようになった。

この時代は”街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆“でも述べた紀州(和歌山)出身の徳川吉宗の時代で、庶民文化が花開き”浮世絵と新版画 – アートの世界の古き良きもの“でも述べた浮世絵が多く作られた時代でもある。

当時、一晩に打ち上げられた花火の数は、仕掛け、打ち上げ合わせて20発程度だったようだが、元より花火が大好きな江戸の事、花火の規模は以来徐々に大きくなっていく。また、当時は納涼船を出して「鍵屋」に花火をあげさせるのが、豪商たちの贅沢の象徴であり、”オランダ黄金期の写実主義 – レンブラントとフェルメール“で述べたオランダのように市民が文化の担い手となっていった。

玉屋と鍵屋と稲荷神社

このような時代の流れの中で「鍵屋」番頭の静七が暖簾分けをし、両国吉川町で玉屋市兵衛を名乗るようになる。それがやがて川の上流を「玉屋(たまや)」、下流を「鍵屋」が担当するようになり、二大花火師の競演となって、これを応援するための掛け声が、花火大会でよく聞かれる「たまや~」「かぎや~」となっていった。

この「鍵屋」「玉屋」の屋号は、古川柳にも「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」という一句が残されているように、もともと鍵屋が信仰していた稲荷に関係が有ると伝えられている。

街道をゆく 赤坂散歩“でも述べているように東京には稲荷神社が多い。この稲荷神社のお元締めである京都の伏見稲荷などでもそうだが、稲荷の守りとして門前などに置かれる狐を見ると、左の狐が鍵をくわえ、右の狐が玉をくわえる形となっている。

鍵屋、玉屋の屋号はこの狐がくわえた鍵と玉(宝珠)に由来するものとなっている。
  稲荷神の化身とも守り神とも伝えられる狐だが、狐によっては巻物をくわえていたり稲穂をくわえている場合もあり、こうした付属物の違う理由については、あまり定かにはなっていない。
  稲荷神は元来稲の豊作を祈願する神だったが、山の神としての信仰や土地の守り神のような信仰とも関係があり、花火師の弥兵衛は安全祈願のため稲荷を信仰したのか、または出身地である奈良県の集落の民俗、信仰にも関係したとも言われている。

玉屋の没落と判官贔屓

この玉屋と鍵屋の競演はわずか35年しか続かなかった。

「一両が花火間もなき光かな」(其角)の句にもあるように、鍵屋と玉屋が競い合うことで加熱した花火大会では、納涼舟や水茶屋の川遊びに興じる武家や豪商の出費が大きくなってしまい、天保13年(1842年)には幕府が鍵屋と玉屋に対し、巨額の打ち上げ花火や仕掛け花火を禁止することとなり、さらに天保14年、玉屋は花火の製造過程での失火により、町並み半町ほどを焼いてしまう大火事を出してしまい、この日は将軍家慶が日光への御社参される前日であった事から、御成り先までを騒がせたとして玉屋は江戸所払いの重い刑を受け、後に花火屋としての玉屋は断絶する事になってしまう。

この後、花火大会は鍵屋のみとなってしまうが、江戸の人々は玉屋のことを惜しみ、「玉屋」と掛け声を上げ続けたらしい。この時代の歌に「橋の上、玉屋、玉屋の声ばかり、なぜに鍵屋と言わぬ情(じょう=錠)なし」というものがある。これは「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」という詠み手の洒落を詠んだもので、判官贔屓的な江戸っ子気質を表したものと言われている。

「鍵屋(かぎや)」はその後もさまざまな花火を開発して日本の花火界をリードしており、現在は15代目が当主となっている。この15代目当主は、福岡国際女子柔道選手権48キロ級では銅メダルを取ったアスリートでもあり、東京オリンピックでは柔道の審判員をつとめた人物でもある。

現在の花火大会は、単純に花火を楽しむだけでなく、音楽とシンクロさせたエンターテイメントとして楽しむものも多く開催されている。例えばサザンオールスターズの桑田佳祐の故郷である神奈川県茅ヶ崎市では、サザンの曲とシンクロさせた「茅ヶ崎サザン芸術花火大会」が開催され、「いとしのエリー」「勝手にシンドバッド」「TSUNAMI」「希望の轍」など往年のヒット曲とともに花火を楽しむことができる。

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