饂飩と蕎麦

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饂飩(うどん)

街道を行く 中国・閩(びん)の道“では禅と共に中国から輸入された漢字の一つに饂飩(うどん)があったと述べられている。

うどんはwikiによると「うどんは、日本ののひとつ。小麦粉を練って長く切った、ある程度の幅と太さを持つ。またはその料理である。饂飩とも書く。細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定(後述)がある以外は厳密な規定はない。細い麺であっても「稲庭うどん」の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については「きしめんひもかわ」も含まれる。」と述べられている日本ではお馴染みの料理となる。」とある。

うどんの由来は諸説あるようだが、概ね米作に向かない中国北部などで小麦を主食とした饂飩、蕎麦饅頭などの粉物食文化の影響を受けたものとされている。現在の形で食べられるようになったのは江戸時代初期からだったらしい。

日本におけるうどんの文化は、歴史的には後述する蕎麦より古く、参拝者などに対する「門前饂飩」として古い歴史を持った社寺にまつわる文化的なうどんが各地に存在している(加須うどん吉田のうどん伊勢うどんなど)。

また。各地で名物のうどんが作られている。

また江戸っ子の食べ物といえば蕎麦というう認識が強くあるが、江戸の初期では実は蕎麦よりも、うどんの方が人気があったとされている。上方から伝わったうどんと薄口醤油のコンビネーションは、またたく間に江戸の街に広がり、ブームを築くことになっていった。それに対して、江戸本来の食べ物を求める声も少なくなく、だしも上方に対抗すべく、濃口しょうゆに変えられていった。

蕎麦について

蕎麦(そば)は、wikiによると「穀物ソバの実を原料とする蕎麦粉を用いて加工した、日本、および、それを用いた料理である。中華そばとの対比で「日本蕎麦(にほんそば)」、「和蕎麦(わそば)」という表現が用いられるほか、沖縄そばとの対比では「ヤマトそば」と呼ばれることもある。本来、ソバの実/蕎麦粉には様々な食し方があるが、麺にした蕎麦、すなわち蕎麦切り(そばきり)が普及してからは、単に蕎麦と言うと蕎麦切りを意味する。」とある。

蕎麦は寿司、天ぷらと並ぶ代表的な日本料理であり、その歴史も古い。この蕎麦の調味として作られる「つゆ(蕎麦汁)」は、地域によって色・濃さ・味などに明らかな違いがあり、その成分も各地によって好みが分かれる。蕎麦を供する場合には皿(竹簾が敷かれている専用の蕎麦皿など)やざる(ざるそば用)、蕎麦蒸籠などが用いられる。蕎麦つゆを供する場合には徳利(蕎麦徳利)と猪口(蕎麦猪口)が用いられることが多い。また汁を張った丼に蕎麦を入れて供するものもある。蕎麦は専門店のみならず、外食チェーンなどのメニューにも載っており、小売店などでも麺が乾麺、生、または茹で麺の状態で販売され、カップ麺としても販売されている。

蕎麦は年中食べられている料理であるが、日本では縁起担ぎのために大晦日の夜に年越し蕎麦を食べる事が風物詩となっている。

ソバの日本への伝来は縄文時代まで遡るとされている。島根県飯石郡頓原町からは、一万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前の花粉が出ているとある。

文献上では『続日本紀』には奈良時代の養老6年(722年)7月に発せられた詔に「今夏無雨苗稼不登 宣令天下国司勧課百姓、種樹晩禾蕎麦及大小麦、蔵置儲積以備年荒」とあり、旱害に備えるために、晩稲(遅く実る稲)や蕎麦、大麦、小麦を植えて備荒対策とするように指示を出している。これが、わが国で蕎麦の栽培について書かれた最初の記録となる。

鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する救荒食物としての雑穀だったと考えられている。

そのような救荒食物としての食べ方としては、古くは粒のままにし、

あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食した。

蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、蕎麦切り(そばきり)と呼ばれ、現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。このような形態が日本にもたらされたのは、鎌倉時代、承天寺の僧聖一国師が博多から宋に渡り、水車を利用した製粉技術を記した設計図『水磨の図』を持ち帰り、この挽き臼技術による粉をベースにした食品、羊羹の前身)、(まんじゅう)、麺(うどん・そば)の製法を日本人に広めたとの説もある。

蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、1574年(天正2年)で、庶民への普及は18世紀(元禄時代)であったと推定されている

江戸時代前期の江戸の市中においては、蕎麦(蕎麦切り)が普及しておらず、蕎麦がきなどの形で食べられていた。蕎麦切りの元祖は信州そばであり、蕎麦切りの最古の記録は、天正2年(1574年)に木曽定勝寺で落成祝いに蕎麦切りを振る舞ったというものとなる。これが信州から甲州街道や中山道を通して江戸に伝えられたものとされている。蕎麦切りが普及したのは、蕎麦と蕎麦屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、脚気防止のために冷害にも強い蕎麦が好まれたからとされている。

江戸時代の蕎麦はつなぎを使わない十割蕎麦であったが、それらは切れやすかったため、切った蕎麦を蒸籠に乗せて蒸し、そのまま客に提供する形が主流であった。今でも「盛り蕎麦」を「せいろ蕎麦」と呼ぶのはこの名残からとなる。

また、そばつゆは、今のような鰹節の出汁に醤油や味醂が加えられたものではなく、味噌がベースとして使われていた。これはシンプルに「味噌だれ」と呼ばれていて、味噌に水を加えて煮詰め、布袋に入れて吊るし、垂れてきた液体を利用していた。また「たれみそ」と呼ばれるものは、江戸時代の料理本には、大根の汁、削り節、大根おろし、あさつきを入れて、芥子や山葵を加えても良いとされている。

「江戸の三大蕎麦」として「藪(やぶ)」「更科(さらしな)」「砂場(すなば)」がある。これらの屋号は現在でも多くの蕎麦屋で使われている。

また江戸時代には、蕎麦の人気を高めようと店側もさまざまな工夫を凝らしていた。今もそば屋で酒を飲むのが粋と言われているのは、蕎麦が茹で上がるまでの時間を短気な江戸っ子に楽しく過ごしてもらいたいと思い、酒を供するようになったことからによる。

ただ蕎麦と酒というのは必ずしも相性が良い組み合わせではないと思われており、そのため酒を楽しむ人のために蕎麦を抜いた「ぬき」、蒲鉾を薄く切ってわさびと醤油を添えた「板わさ」、天ぷらの「天たね」などのメニューも工夫されていた。これらはいわゆるおつまみだが、どれもそば屋に常備されている食材であり、つまみとして用意しているものではないのがポイントとなる。

このように昼間でも軽く酒が飲みたい時にそば屋に行けば、特に文句を言われることなく楽しめるようになり、そういった意味でも人気が爆発的に高まっていった。

蕎麦には様々なバリエーションが考案されている。ご当地蕎麦としては「にしんそば」や「はらこそば」「しっぽくそば」「カレー南蛮」等ががある。

にしんそばは、”街道をゆく – 北海道の諸道“でも述べている北海道の名物料理でかけそばの上に身欠きニシンの甘露煮を載せたものとなる。

はらこそばは、岩手県のそばで、南部鼻曲り鮭の卵をほぐしてそばの上にのせて半熟状になるまで暖めたそば、あるいは生のハラコに軽く塩をしてそばにのせるものとなる。

しっぽくそばは、京都で古くから親しまれるもので、のこと。ひとつひとつ手作りで昆布を巻いたゆば、香りいい原木栽培の干し椎茸を一晩かけてじっくり炊きあげた煮付椎茸、板麩に三つ葉など、京都らしい具材の「五目」や「かやく」を乗せたものとなる。

最後にカレー南蛮は、東京四谷の日本蕎麦店で、西洋風味のカレーと日本人好みの鴨南蛮そばを合わせて売り出したのが始まりと言われている。

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