オランダ黄金期の写実主義 – レンブラントとフェルメール

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オランダの黄金期

街道をゆく オランダ紀行“や”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“で述べているように、17世のオランダは世界貿易や、都市向け園芸農業(チューリップ等)、ガラス工芸、毛織物、造船、醸造、印刷などの農工業の発展により、世界の中でも最も強い強い商工業国となり黄金時代を築いていた。

また「まことに世界は神が作り給うたが、オランダだけはオランダ人が作ったということがよくわかる」と司馬遼太郎が述べているように、オランダはいちはやく自律主義や合理主義、近代的な市民精神を確立したプロテスタントの国でもあった。

街道を行く第35巻オランダ紀行

そのため、王侯貴族が存在せず、絵画購入のパトロンとなる層は裕福な市民たちで、これまで王侯貴族が好んだ神話や聖書のエピソードを題材にした歴史画(物語画)などの遠い昔の、地理的にも隔たった場所の物語を描いた絵よりも、自分たちにとってより身近な主題──生活の一場面や、身近な風景、物品(静物)を描いた絵を好んで画家に描かせるようになっていった。また、プロテスタントでは偶像崇拝が禁止されているため、教会からの大型の宗教画の注文もなかったことなどもあり、オランダの絵画は、ヨーロッパの中でも独自のジャンルを確立していった。

今回はそれらオランダ黄金期に関係する画家について述べてみたいと思う。

オランダ黄金期の画家達

オランダが世界的な影響力を持っていた時期、すなわちネーデルラント諸州の独立戦争である八十年戦争(1568年から1648年)の終わりから17世紀(オランダ黄金時代を中心として、オランダ人あるいはオランダで活躍した外国人の画家たちによって描かれたオランダ黄金時代の絵画について述べる。

まず代表的な画家の一人としてレンブラントがいる。上の絵はレンブラントの代表作の一つである「夜警」となる。

レンブラントは日本で言うと関ヶ原の合戦の時代、1606年に生まれ1669年、63歳で死ぬ。生まれたのは、大学で有名なライデン市の裕福な粉屋の家で、親は小麦を挽いて粉にする動力として風車を一基所有していて、その風車がライデン市を流れる旧ライン川に面していたため、苗字がレイン(Rijn:ライン川のラインのオランダ語)となる。

レンブラントはその家の8番目の子で、14歳でライデン大学に入学、数ヶ月で中退し、数人の師匠に師事し十九歳には独立した画家になっていた。当時のオランダでは商工業者達の間で、自分の肖像画を画家に描かせることが流行っており、しかも商人は、平素、商品の形や質感に敏感であったため、絵が少しでも自分の顔に似ていないと「これじゃ、お金を払えないよ」と言いかねないドライな世界で、そのため、十七世紀のオランダ美術では徹底した写実主義が幅を利かせていた。

レンブラント自画像

「夜警」はアムステルダムの国立博物館の一階正面奥に展示されており、チャールズ・ファウクスという英国の評論家がこの絵に対して

「当時、市民軍(自警団)はもはや戦いということはなくて、裕福な市民の社交クラブになっており、それらのうち十八人がレンブラントに集団肖像画の制作を、一人平均百ギルダーの報酬で依頼した。が、できあがった絵は個々を満足させる肖像画ではなく、レンブラントは、たったいま目的に向かって出発しようとしているむれを、光と影で捉え、ほとんどのものは構成上、淡い光の中で見え隠れしたり、群れの中で顔の一部が見えていただけで、全身光を浴びて見えているのは、隊長のフランス・バニングコックとその副官だけとなっていた。そのため、「夜警」では怒った依頼者達が金を払わず不評であった」

と述べている。

また、レンブラントの声望を決定的にした作品として「トゥルプ教授の解剖学講義」がある。

題名となっているトゥルプ教授は、アムステルダムで有名な外科医で、トゥルプ(Tulp)という苗字は、オランダ名産のチューリップに由来するらしく、「チューリップ先生」とも呼べる人物だったらしい。

このチューリップ先生が「わしが解剖しているところを、画家に描いてもらいたい」と周りに相談し、当時の第一等の画家として、若いレンブラントが推薦され大作を仕上げたものとなる。ここで解剖されているのはアリス・キントという名の死刑囚で、アムステルダム市中の外科医ギルドの塔の最上階で行われていた解剖教室での様子を、死者に対して静かな敬意を込めながら観察して絵としたものと言われている。

レンブラントに次いで、日本で人気な画家としてフェルメールがいる。

フェルメールはレンブラントより少し後の1632年に生まれ、1675年に没しているオランダ・デルフト出身の画家で、風俗画と呼ばれる一般市民の日常生活を描いた絵を描くことが特徴となっている。生涯で彼が描いた絵は32から37と少なく、その作品数の少なさのため18世紀までは忘れられた存在となっていた。

19世紀のフランスにおいて、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベジャン=フランソワ・ミレーが現れ、この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながっていくなかで、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。

上記の絵はフェルメールの代表作の一つである「真珠の首飾りの少女」となる。フェルメールの絵は、人物など作品の中心をなす部分は精密に描き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができ、この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。

少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現しており、この技法はポワンティエ (pointillé) と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つとされている。また、フェルメールの絵に使用される鮮やかな青は「フェルメール・ブルー」と呼ばれている。

フェルメール自画像

オランダ黄金期には、レンブラントやフェルメールの他にも、陽気な酒飲みや「ジプシー女」を描いたフランス・ハルス

都市の建物の中を描いたファン・ホーホストラーテンなどがいる。

コメント

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