雪舟の後を継ぐ長谷川等伯と狩野派

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雪舟に影響を受けた画人たち

前回、”雪舟と自由自在“で述べた、日本独自の水墨画を作り出し、その後の著名な画人に影響を与えている。例えば、桃山時代、狩野派と張り合っていた長谷川等伯は自ら「雪舟五代」と称していたり、江戸時代初期には狩野派の狩野探幽が意識的に取り入れた「雪舟風」が、後の狩野派のスタンダードとなっていく。

今回は、長谷川等伯と彼が張り合っていた狩野派について述べる。

長谷川等伯

長谷川等伯は、後述する狩野永徳と並び称される桃山時代の巨匠として名高い画家となる。桃山時代は”街道をゆく 堺・紀州街道“でも述べているように、商人の力が強くなり、侘び寂びの文化と共に金襴に代表される豪華な様式が流行った時期でもある。

等伯は1539年に能登七尾(現在の石川県七尾市)に生まれ、地元で絵仏師として活躍後、上京し本法寺を拠点として絵画作成活動に入っている。1590年に狩野一門と争う「対屋事件」と呼ばれる事件が起きる。これは狩野派が担当することになっていた御所の障壁画制作に等伯が割り込み、永徳側の巻き返しにより等伯の企ては失敗に終わったもので、当時の等伯の実力が狩野派のそれと同等レベルであったことがわかるものてあった。

長谷川等伯は、最初は水墨画の画家として評価されており、「竹虎図屏風」は右隻には上体を伏せて竹林にひそむ獲物の気配を窺う虎、左隻には後ろ足で首元を掻く虎が描かれたものとなる。

また、国宝に指定されている「松林図屏風」は日本水墨画において、孤高の作と高く評価されている。

また、同じく国宝となっている智積院障壁画」は、狩野永徳の作風である生命力豊かな巨大な樹木に加えて可憐な草花を組み合わせたモチーフの金碧障壁画で、単純に当時流行っていた永徳画の模倣をしたものだけではなく、そこに巨樹を取り巻くように華やかな草花が添えて、豪壮さから優美さへ、という桃山時代前期から桃山時代後期へと変化する美意識の転換を表しているものとなる。

長谷川等伯に関しては、安倍龍太郎による小説もある。

狩野派

狩野派とは、血縁関係で繋がった狩野家を中心とした絵師の専門集団で、常に幕府の仕事を担ってきた画派となる。

狩野派の始祖である狩野正信は、室町時代の足利家御用達の絵師であり、それまでの足利家の御用達絵師は禅僧が務めていたものが、正信は僧としての修行を行わず、専門画工として仏画のみならず中国の様々な様式を学習して要望に応え、肖像画まで描き、また、足利家以降は、桃山時代には織田信長、豊臣秀吉、江戸期には徳川家の御用絵師として様々な絵を描いていた。

狩野正信は当初様々な水墨画様式を注文に応じて描いていた。正信の後を継いだ元信は幕府や禅寺の他、公家や有力町家宗など新しい客層を開拓したため、注文が多様化し、集団制作できる体制を作る必要に迫られ、工房制作体制を確立した。

元信の孫、狩野永徳は、時の権力者である織田信長の好む西欧を視野に入れた壮大な世界観と、金の輝きよる威圧感を、”巨木表現”と呼ばれる表現様式で絵画の世界で視覚化してみせた。

この画風は桃山時代を代表する画風となり、あらゆる画家が追従している。この”檜図”や”唐獅子図”の壮大な世界観は、織田信長や豊臣秀吉の心をとらえていた。

また、狩野永徳は、前述のように同時代の長谷川等伯からライバル視を受けており、「対屋事件」のような対立も起こしていた。

狩野永徳に関する図書としては”洛中洛外画狂伝 狩野永徳”や”狩野永徳”がある。

狩野永徳の孫が狩野探幽で、彼は京を離れ江戸に出て徳川政権の幕藩体制に入り作品を作っていった。彼は、枠の中で美しく形が整い、余白が美しい探幽様式を作り上げ、これが江戸時代を規定する様式となっていった。

狩野派は、徳川幕府の御用絵師であったため、徳川幕府の崩壊とともにパトロンを失い消滅していき、”明治のアート フェノロサと岡倉天心と茶の本“で述べている明治のアートの世界に移り変わっていく。

コメント

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  2. […] をペアとしてもちいる)の形式が確立して以来、主流となっていたのは”雪舟の後を継ぐ長谷川等伯と狩野派“の長谷川等伯や狩野永徳の作品でよく見られる六曲屏風(六枚のパネル […]

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