街道をゆく 韓のくに紀行

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第2巻韓のくに紀行

前回は奈良県十津川街道について述べた。今回は韓国の旅となる。司馬遼太郎は、古代の朝鮮を体験しようと、韓国の農村を巡る旅にでる。釜山の龍頭山では、李舜臣の像を見て、祖国を救った海将に敬意を表し、釜山の近郊の金海では、金氏の祖廟・首露王陵を訪ね、礼拝する人を見て、李朝という儒教国家が続いているような思いにとらわれる。慶州郊外の仏国寺では、万葉集に出てくる「歌垣」を思わせる野遊びに出会い、その近くの掛陵では、古代を思わせる老人たちの酒盛りに合流する。大邸近郊の友鹿洞(友鹿里)という村では、秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮に投降して武将の実在を実感し、百済の旧都扶余では、古代日本と百済の関係や白村江で散った兵士たちの心情に思いを馳せる。

今回の旅は日本と歴史的関係も深い韓国の旅となる。旅は「加羅(から)の旅」「新羅の旅」「百済の旅」の3つのパートに分かれている。朝鮮半島の歴史は、古朝鮮と呼ばれる時代(紀元前195年頃)に箕子朝鮮と呼ばれる国家が誕生、衛氏朝鮮は漢の武帝に滅ぼされ、400年間支配されたが、三国志の時代にもあたる220年に漢が滅亡した後、満州鴨緑江付近で興った高句麗が南下して朝鮮半島北部を制圧し、南西部には百済、南東部には新羅、そして南端部には諸小国の雑居する伽耶(加羅、任那)ができた。

その後7世紀頃(日本では飛鳥・奈良時代にあたる)に新羅が中国大陸と軍事同盟を結び、百済・高句麗を相次いで滅ぼして統一新羅国家として朝鮮半島の大部分を統一した。

10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。

高麗は13世紀モンゴル帝国)の侵攻を受け支配下に入り、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べている元寇では、元の尖兵となって日本とも戦っている。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親を掲げる女真族ともいわれる李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。

その後、太平洋戦争の時代(19世紀)まで約600年間李氏朝鮮が続くこととなる。

司馬遼太郎は、今でも韓国ドラマで見られる強烈な儒家思想(“法家と儒家 – 秩序と自由“でも述べている年長者や祖先(家)を敬う思想)は、この李氏朝鮮によるものと述べている。ちなみに一昨年人気となったnetflixの韓国ドラマ”ウヨンウ弁護士は天才肌“では、裁判長と弁護士が「あなたの本貫はどこですか?」と質問して、弁護士が「豊山リュ氏です」、裁判長も「私も豊山リュ氏です」と答えて、さらに何代目ですかという質問に「豊山リュ氏26代目」ですと答えるシーンがある。

この話を見た時に、最初は何を言っているのかと思ったが、本貫とは、男系の血縁をかさのぼっていった先の一族の始祖とされる人物の根拠地にないし発祥地のことを指しており、簡単に言うと祖先の生まれで、本貫が同じでかつ姓も同じ(同姓同名)であれば、その人々は男系の血縁で結ばれた同じ氏族であり、祖先に近い代目の方が偉いという極めて儒教的な会話を述べていたものらしい。

街道を行くの旅では、主に高句麗、百済、新羅、伽耶(日本の歴史の教科書では任那)の4つの国に分かれた時代の歴史と遺跡を訪ねる旅となっている。

まずは釜山からスタートする「加羅(から)の旅」となる。加羅は1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。九州/博多から220km、”街道をゆく 壱岐・対馬の道“で述べている対馬から114kmと近い位置にあった為、倭人(日本人)が多くいたと記録にも残っている。

加羅にある小国群は”街道をゆく 壱岐・対馬の道“でも邪馬台国に続く道として記載されている。また加羅の権力層には倭系のを帯びる集団がいたことも確認されており、日本からの渡来人の存在は後述の百済でも確認されている。加羅は最終的には百済や新羅に併合されることとなる。

次に司馬遼太郎が訪れたのは百済となる。百済は漢城(現在のソウル)を首都としていたが、北方の満州地方にいたツングース系の国家である高句麗の侵攻で、漢城を追われ、熊津、泗沘(しひ:現在の忠清南道(チュンチョンナム)の道南西部,プヨ(扶餘)邑にあたる)と都を移している。

百済の時代の中国は”街道を行く – 中国の道“でも述べているように漢が滅んで、隋・唐という統一国家ができるまでの混乱した時代で、揚子江近辺の南部中国に多数の国家で構成された六朝時代と呼ばれた時代であった。

仏教は仏教と経典と大乗仏教の宗派について“でも述べているように、後漢の時代に中国に伝わり、”水のように生きる-老子思想の根本にある道“でもべている老荘思想が盛行し、さらに”般若経の教えにモデルチェンジを加えた法華経“でも述べている大乗仏教の空の思想は、老子の道の思想を取り込んで六朝の中で王朝の貴族により溺愛され、貴族は国王を畏れるよりも仏罰を恐れ、仏事に没頭したと司馬遼太郎は述べている。さらに六朝は国家の独立よりも思想や芸術に惑溺するという江南の爛熟しきった文明体質を持っていたとも述べている。

百済は黄海に面し、この六朝との文化的接触が強く、仏教が伝来されたとともに、思想や芸術に惑溺するという体質であったらしい。この百済から”日本のアートの歴史と仏像につにいて“でも述べているように、釈迦如来の金剛像(下)などの仏像とともに日本に仏教が伝来した

また”街道をゆく 大和・壷坂みち“でも述べている奈良の飛鳥文化もこの百済を経由した六朝文化の影響を強く受けている。

百済はその後、中国で成立した統一国家である唐による支援を受けた新羅により侵略される。日本は百済との結びつきが強かったため、日本の大和朝廷に対して救援を要請、それを受けて、”街道をゆく 因幡・伯耆のみち“でも述べている大化の改新(645)を行った中大兄皇子らにより、百済の支援が決定、朝鮮に出兵、新羅・唐連合軍に大敗をきしたのが有名な”白村江の戦い”(663年)となる。

白村江の戦い後、百済は滅亡し大勢の百済人が日本に亡命、初期の大和朝廷を支える勢力となった。その後、高句麗も唐に滅ぼされ、朝鮮半島は新羅に統一される。

司馬遼太郎等は扶餘に唯一残る百済の構造物である「百済塔(ペクチェタブ)」と呼ばれる石造五重塔を眺める。

百済の遺跡を訪れた後は、新羅の遺跡を訪れるため慶州(キョンジュ)に向かい、日本での法隆寺や唐招提寺にあたる韓国で最も古い仏教建築である仏国寺を訪れる。

さらに時代が過ぎて1592年-1598年に行われた豊臣秀吉による明征服のための朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で日本軍を破った李舜臣の銅像を眺め

さらに、その際に朝鮮側に投降したとされる沙也可という武将の子孫がいると言われている慶尚北道の友鹿洞を訪れて旅を終える。

次回は中国・江南の道について述べる。

コメント

  1. […] 前回は韓のくに紀行について述べた。今回は歴史を通じて日本と関係の深い中国・江南(長江下流の南側に広がる広大な肥沃な地域)を通じて大いなる古代文明を築いた蘇州、杭州、紹興、寧波を巡る旅となる。 […]

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