街道をゆく 中国・江南のみち

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第19巻 中国・江南のみち

前回は韓のくに紀行について述べた。今回は歴史を通じて日本と関係の深い中国・江南(長江下流の南側に広がる広大な肥沃な地域)を通じて大いなる古代文明を築いた蘇州、杭州、紹興、寧波を巡る旅となる。

今回の旅は蘇州から、蘇州では現存する城門に沿って宋と日本との関わりについて述べられ、また龍井(竜井)の茶畑を見て中国茶の日本への影響について述べられている。紹興では魯迅故居を訪ね、中国の知識人階級の暮らしについて考察し、最後に訪れた寧波では、遣唐使や鎌倉時代の留学層が上陸した港や天童山を訪れ、文化の吸収に努めたかつての日本人たちに思いをはせている。

今回の旅は中国の旅となる。古代中国は、文明の巨大な灯台であり、東アジアの周辺の諸民族は、古代、大なり小なり、その光を光被し、それぞれ独自の文化を作ってきた。

中国は多民族国家であり、五十余の少数民族がいる。それらはすでに紀元前より存在し、古代文明の成立に役割を果たしている。例えば鉄に関しては、夷(い:非漢民族)が最初にそれを所有していたという歴史の痕跡は”古代中国の合理思想 – 管子“で述べている「管子」や「山海経」「呂氏春秋」なども残されている。また、”茶の歴史と日本の茶の湯“で述べている茶の起源も山系に住む少数民族の風習を漢民族が導入したものとなっている。

また、農業においても、淮河・長江の東西線から南は、稲を育て、米を食べており、春秋の時代は、非米穀物地帯の中原のひとびとからは、気質、文化などを異にする集団とみられ、荊蛮(けいばん)と呼ばれていた。

さらに羌(きょう)とよばれる中国西北角に住んでいたチベット系の牧畜民族は、周の王室とも血縁関係があり、最初の統一国である「秦」の人民の多くはこの「羌」の農耕化した物ではないかと言われている。

また、”シルクロードと平原の歴史“にも述べているように、ユーラシア大陸内部の平原にいた遊牧民族の影響により、それまで馬は車を引く存在であったものが、人が乗って戦闘する形態に変わっていったという例もある。

今回の司馬遼太郎の旅は、この文明のるつぼという観点から、日本文化に大きく影響を与えた唐、明、宋、清の日本側への交流の窓口である江蘇省、浙江省を訪れるものとなる。

まずは蘇州から、蘇州は春秋時代の呉の都が置かれ、呉文化圏の中心であった。また、水の都と呼ばれ運河による水運が盛んで「東洋のヴェニス」とも呼ばれるが、歴史はヴェニスよりもはるかに古い。

蘇州は中国第二の大都市である上海の隣にある。

蘇州では、盤門を訪れている。ここは、”問題解決のルーツ- 孫子について“でも述べている孫武を歴史の舞台に引き上げた伍子胥が作った門であり、彼は呉と越の戦いの中で、呉の王闔閭につき活躍するも、奸臣の諫言によりその子の夫差に疎まれ自害するように命令され、「自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と遺言を残して死んだことでも有名な人物となる。

次に一行は杭州に向かう。杭州は”禅と寺と鎌倉の歴史(臨済禅と鎌倉五山)“に述べている日本の禅宗に影響を与えた南宋の首都であった都市となる。現在は高铁(中国の新幹線)で蘇州駅から杭州東駅まで1時間40分の距離になる。

杭州では関羽とともに中国で人気の武将である岳飛(がくひ)の墓である岳王廟に向かう。

共に死後神として祀られる。関羽が三国志の時代(今から1700年ほど前)の時代の人物なのに対して、岳飛は南宋の時代(今から900年ほど前)の人物で、”街道をゆく モンゴル紀行“で述べた元が中国を統一する前の時代に、満州を拠点とする女真族の王朝であると宋との戦争で活躍した人物で、背中に「尽忠報国」の入れ墨を入れて、劣勢の宋軍を立て直し、連勝に次ぐ連勝を重ねた。

それに対し、宋の皇帝と宰相である秦檜(しんかい)は、金に莫大なお金を払って和解すれば、戦の無い平和な世の中を実現できると考え、戦いに勝ってしまう岳飛を邪魔だと考え、無罪の罪を着せて牢屋に入れ、謀殺してしまう。後に濡れ衣は晴れ、江南の民衆は彼を神として祀るようになり、さらに岳飛を陥れた南宋の宰相であった秦檜と張俊が正座をしている像を岳飛の像の前に作り、その像に唾を吐きかける風習が残っていたらしい。(この風習は、現在は禁止されている)

岳飛に関しては、以前はamazonプライムのドラマで見ることができたが、現在は配信が止まっている。書籍では北方謙三の岳飛伝全17巻で見ることができる。

杭州をあとにした司馬遼太郎は龍井(竜井)の茶畑を見て中国茶の日本への影響について述べ(“茶の歴史と日本の茶の湯“も参照のこと)、さらに紹興酒で有名な紹興を訪れ魯迅故居を訪ねている。

紹興酒は餅米と紹興市鑑湖の湧水を使って醸造し、3年以上の貯蔵熟成期間を経た黄酒(ホアンチュウすなわち醸造酒)となる。中国では鑑湖の水で仕込むので、鑑湖名酒とも言う。アルコール度数は14 – 18度。飲用にするほか、調味料としても用いられ黄酒を長期熟成させたものを老酒(ラオチュウ)と呼ぶ。紹興酒は油濃い中国料理に合うが、酸味と苦味が強いので砂糖角砂糖を入れて飲む人もある。

魯迅は辛亥革命後の中国で活躍した文学者で、日本へ医学留学し、帰国してから文学に転じ、1918年から『新青年』誌上で白話文学を実践している。代表作は『阿Q正伝』となる。北京、広州、上海で古典研究、創作を続けながら、南京国民政府の右傾化に反対し政治活動にも関わり、上海事変に遭遇、日本の侵略が強まるなか、1936年に死去している。

江南のみちで最後に訪れたのは寧波となる。寧波では、遣唐使や鎌倉時代の留学層が上陸した港や天童山を訪れ、文化の吸収に努めたかつての日本人たちに思いをはせ旅を終えている。

次回は、中国・蜀のみちについて述べる。

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