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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回は鳶の頭や木場の筏師、落語などから江戸時代を生きた人々を訪ねる深川・本所界隈の旅について述べた。今回はは近代化を急ぐ明治期の日本において、欧米文明を受け入れ地方へ配る「配電盤」の役割を担い、さらに日本最初の大学が置かれた街、本郷について述べ、夏目漱石、森鴎外、樋口一葉等の、この街に生活した明治の文豪について述べる。今回の旅のルートは、武蔵野台地の東側にある本郷界隈、台地に大小の谷が刻まれた坂の町となる。まずは、縄文時代には入江だった上野・不忍池から無縁坂、切通坂、弥生坂を上る。台地の頂上には弥生坂がある。東京大学は旧加賀藩邸の跡地に建てられたものでそれらや、近辺の邸跡、寺院を訪れながら、高島秋甫や最上徳内らの江戸時代の偉人を思い、さらに森鴎外や夏目漱石の小説の舞台でもある団子坂の藪下の道、若き日の正岡子規らが既出した「常盤会」跡をめぐる。最後に漱石の三四郎をとの挙げ、三四郎池の畔にたたずみながら、寺田寅彦や明治期の化学者に想いを馳せる。
本郷は江戸時代には加賀前田藩の広大な上屋敷があった場所となる。前田藩は加賀百万石と呼ばれ、仙台の仙台伊達家の62万石、薩摩島津家の92万石をはるかに超える非徳川家(外様大名)勢力であった。徳川幕府は体制が安定するまでにこのような非徳川家勢力を積極的に排除してきた、例えば広島藩を納めることになった福島正則は、洪水で損傷した広島城を改修しようとして武家諸法度違反とされて大幅減封されたり、熊本城を作った加藤清正の加藤家も清正亡き後減封されて熊本から追い出されたりしている。加賀前田家はこのような排除の動きに耐えながら江戸時代が終わるまで生き残った大名でもある。上田秀人による「百万石の留守居役」はそのような加賀藩の生き残りをかけた戦いを描いた秀作となる。
東京大学の本郷キャンパスはその加賀前田家の上屋敷の跡地に建てられたもので、有名な赤門は加賀屋敷の御守殿門でもある。
本郷キャンパスの中は広大で敷地面積は561,351 ㎡(本郷キャンパスのある文京区の総面積の中でも5%を占める)緑も多く(文京区全体の緑地面積の約10%を占める)、また安田講堂などの歴史的建築物も内部に多くある。
加賀藩(石川県)は九谷焼でも有名なところとなる。九谷焼は江戸時代に、加賀藩支藩である大聖寺藩領の九谷村で良質の陶石が見つかったのを機に、藩士の後藤才次郎が有田へ技能の習得に向かい、藩の殖産政策として始めたもので、初期の頃の九谷焼は50年ほどで廃窯となり、その後100年ほど経って金沢に新しい窯を開き再開させ、現在に至るものとなる。
この初期の九谷焼は「古九谷」と呼ばれ、九谷はほかの色絵磁器に比べると釉の色が濃く、力強い絵付けが特徴ですが、古九谷は特に力強く独特の魅力を放っている他、作られた期間が短いため、現存数が少なく、希少価値も高いものとなっている。
そのような古九谷も本郷の加賀藩邸跡の遺跡調査から出土されたらしい。
本郷は森鴎外、夏目漱石などの明治時代の文豪の小説の舞台にもなっていた。それらの中で森鴎外の「団子坂」に夏目漱石の「三四郎」が登場したりと、現代でいうクロスオーバーの設定になっていたらしい。
その夏目漱石は、明治33年に国費でロンドンに留学し、慣れない留学生活に神経をすり減らしていた。その夏目漱石のロンドン留学時代の憂鬱を一時的にも救ったのは、滞英中の科学者池田菊苗との会話だったことはよく知られている。池田菊苗は物理学の理論や実験を使って、物質の構造や化学反応などを研究する物理化学者で、薩摩藩士の次男として1864年に生まれ、99年にドイツに留学、1901年に英ロンドンに短期間滞在し、そこで現地に留学中の夏目漱石と同じ下宿となり交流を深めた人物となる。
漱石は「池田君は理学者だけれども、話していると偉い哲学者であったには驚いた」と高く評価していた。菊苗は肉や魚を食べてうまい感じる味を昆布や鰹の出汁から明確に感じていて、まず昆布からその味を示す物質(グルタミン酸)を一年かけて抽出した。さらにグルタミン酸だけでは弱酸性ですっぱいため、中和するのにナトリウムを加えたグルタミン酸ナトリウム(MSG)を、昆布からではなく 小麦粉などのタンパク質から製造する方法の特許を取得した。これがうま味調味料「味の素」となる。
この特許申請書類に書いた住所が本郷区駒込曙町であった。味の基本は従来は、甘味、酸味、塩味、苦味の4つとされていたが、それに対して「旨味」というものもがあるとしたとろが菊苗の新しかったところでもある。ちなみに舌の味細胞も前述の4つのものに対応する細胞は見つかっていたが、旨味に対応する細胞は見つかっていなかった為、5味の実証ができていなかったが、2000年に、グルタミン酸に反応する受容体を米国の研究者が発見し、やっと5つの基本味が実証されたという話もある。
さらに菊苗の弟子であった小玉新太郎が鰹節の旨みをイノシン酸であると発見し学会で発表した10年後に、ヤマサ醤油の國中明が3種類あるイノシン酸のうち、旨味の感じさせるものを特定し、そのイノシン酸とMSGを順に舐めたところ、「口の中で旨みが爆発」した成果を元につくられたものが複合旨味調味料「ヤマサフレープ」となる。
話を本郷に戻す。本郷台を団子坂から南に折れて、崖上のみち(藪下の道)をたどると、根津裏門坂に出て、坂の中腹に根津神社がある。この根津神社は江戸中期までここにはなく、千駄木にあったものが幕府により移され、その時に根津という固有名詞も付けられたものらしい。
根津神社はツツジが有名で、毎年4月のツツジの季節になると約100種3000株というツツジの花々が咲き誇る都内でも有数の花のスポットとなる。
東京大学を挟んで、根津神社と反対側にあるのが湯島天神(湯島天満宮)となる。天満宮は菅原道真を祀る社で、京都(北野天満宮)、大阪、周防(防府天満宮)、福岡(太宰府天満宮)など全国各地にある。どこの社もあかあかと 華やいでいるのが特徴で、湯島天神も同様に華やかだが、江戸時代にこの門前に岡場所があったせいか、他の天満宮よりも色っぽく艶やかであるとされている。
本郷は台地となっており、湯島天神は鳥居に向かう道は平坦だが 、北側の出口は夫婦坂、石坂(天満男坂)、女坂などの坂を下る形となっている。
本郷界隈には、この他にも坪内逍遥や正岡子規などの明治時代の文豪の碑が多々ある場所となる。
東京は様々な歴史と文化が詰まった街となる。
次回は九州の肥前の島々(唐津・平戸・佐世保・長崎)をたどり、大航海時代のオランダや英国、ポルトガルとの南蛮貿易の跡を巡る旅について述べる。
コメント
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