街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第30巻アイルランド紀行

前回北海道の北東部の海辺に、謎の海洋漁労民族「オホーツク人」を尋ねる旅について述べた。今回はアイルランドを訪ね歩く旅となる。旅のスタートはロンドンから。それは、アイルランドとは切っても切れない関係である英国を感じてから、アイルランドに入りたいということからであったらしい。ロンドンでは国費でロンドンに留学していた夏目漱石のロンドンでの憂鬱を思い鵜がへたり、シャーロックホームズについて考えながらチャリング・クロス駅付近を散歩したりしている。その後、当時全市民の約4割がアイリッシュであるというリヴァプールに向かい、ビートルズにあるアイルランドについて考え、英国協会とカトリックの大聖堂を訪ね800年以上続く、イギリスとアイルランドの葛藤について述べている。

イギリスの歴史。イギリスの主島であるグレートブリテン島には紀元前9世紀ころから紀元前5世紀ころにかけて”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“でも現れるケルト系民族が侵入し、それにより鉄器時代が始まり、ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立している。

その後、紀元前55年ローマユリウス・カエサルがグレートブリテン島に侵入し、西暦43年ローマ皇帝クラウディウスがブリテン島の大部分を征服し、ローマ帝国時代のブリタニアはケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨する世界となった。今でもイギリスにはローマ時代の遺跡が多々残っている。

さらに、5世紀になって西ローマ帝国がゲルマン系諸集団の侵入で混乱すると、ローマ人はブリタニアを放棄し、ローマの軍団が去ったブリタニアはゲルマン人の侵入にさらされることになっていった。その中でゲルマン人アングロ・サクソン諸部族がブリタニアに侵入し、グレート・ブリテン島南東部を征服し、その結果、この地域には後世アングロサクソン七王国と呼ばれるようになる小国家群が成立していく。この七王国は2011年から2019年まで放映された人気ドラマ「ゲーム・オブ・スローン」のモデルとも言われている。

このブリテン島南部の小国家割拠状態の中から次第にイングランド地方が形成されていく。ちなみに、イングランドの名称はアングロ・サクソン諸部族の中のアングル人に由来する。一方、ウェールズにはゲルマンは浸透せず、ローマから取り残されたケルト系の住民が中世的世界に入り、スコットランドと次回述べるアイルランドもゲルマンに征服されることなく、ケルト系部族国家が継続し、それぞれの地域はこの頃から次第に独自の歴史性をもって分離していくことになる。

アングロサクソン人の王国は9世紀の初めにこの中の一つであるウェセックス王国のアルフレッド大王によって政治的に統一され、この統一とほぼ同時にデーン人の侵攻が活発になった。1013年にはデンマークカヌート大王(クヌート)によってイングランドは北海帝国の領域に組み込まれ1042年まで支配された。この話は、人気漫画「ヴィンランド・サガ」の舞台ともなっている。

この後一時的にアングロサクソンの王が復活するが1066年にフランスのノルマンディー公ギヨーム(即位してウィリアム1世)によって征服され、イングランドの支配層はノルマン系フランス貴族に交代した。その結果イングランドはフランス文化の影響を強く受けることになった。ノルマン朝とその後を次いだプランタジネット朝の歴史的な経緯によって、フランスとイングランドの関係は非常に複雑なものになり、これを遠因とする百年戦争の過程においてイングランドは大陸の領土を喪失し、基本的にブリテン島に完結する王国に再編成された。100年戦争を舞台とした漫画はホークウッドにより当時の歴史が語られている。

その後、大陸で15世紀初頭に始まった宗教改革運動はブリテン島にも伝播し大きな影響を与え、これまでの民族的相異、歴史的相異、文化的相違の他に宗教的な相異も加わって後に「イギリス」を形成する各地域の特色を形成することになっていった。

イングランドの宗教改革はヘンリー8世の離婚問題という全く非宗教的な理由で始まったが、これによって成立したイングランド国教会はイングランドでの王権の強化を図る一助になった。その後カトリックのリバイバルが試みられるもののエリザベス1世の統治に及んで国教会の優位は確定的になった。ヘンリー8世の生涯はシェイクスピアの歴史劇でも語られている。

その後、清教徒革命と名誉革命の2つの大きな市民革命を経験し、1700年頃(日本では5将軍綱吉の時代で”浮世絵と新版画 – アートの世界の温故知新“で述べるような浮世絵が流行り元禄文化が成熟してきた時代)に議会が成立し、本格的な市民社会となると共に”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べたように没落してきたスペイン・ポルトガルに代わり大航海時代に入り、インドや北米大陸に多数の植民者を送り出した。司馬遼太郎によると、これはカトリックをベースとした国家であるスペインやポルトガルは垂直統合型の組織で社会の発展が持続可能ではなく頭打ちになってしまうのに対して、イギリスやオランダなどのプロテスタントの国では市民の自立が重視され、社会の発展も大きくなるというものらしい。

街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“でも述べているように、このスペイン・ポルトガルからの代替わりは日本でも起こり、当初鉄砲を伝来し、日本と交易をしていた南蛮人(スペイン・ポルトガル人)は次第にいなくなり、紅毛人(淡い髪色の形質を持った人種であるオランダ・イギリス人)が鎖国時代の日本と交易を行うこととなる。

幕末の開国時にも、英国は大きな影響を与えた。たとえば幕末の歴史では有名な生麦事件。これは、横浜の生麦(現在は、キリンのビール工場が近くにある)で、”街道をゆく – 肥薩のみち“でも述べた九州の薩摩藩がイギリス人に喧嘩を売り殺害し、賠償を求めるイギリスと戦争をして全く歯が立たたなかったという事件で、この結果、薩摩や長州などの明治維新に活躍した藩が、これまでの鎖国的な考えを改め、明治維新を加速させたというものとなる。

イギリスとはその後明治35年(1902年)には、日英同盟が締結されるなど、関係の深い国となっていく。また、古くから市民社会が形成された英国のしくみは、中世の幕藩体制から、明治の近代社会への転化のためのロールモデルとして捉えられ、”街道をゆく 本郷界隈“で述べた池田菊苗夏目漱石など多くの留学生が国費で派遣される。

街道をゆくの旅では、この夏目漱石の足跡を訪ね、倫敦蝋石記念館や漱石の下宿跡を見ている。

さらに1908年に建てられ、イングリッシュ・ヘリテッジ(イングランドの歴史的建造物)のグレードIIに認定されているザ・ウォルドーフ・ヒルトン・ロンドンに宿泊し、「“鯨の村”ホテル」と親しみをこめて呼んでいる。

その後ロンドンを離れ、リヴァプールに向かい、ビートルズがライブをしていたクラブや、たむろしていたパブがあったマシュー・ストリートに行く。

さらにリバプールで最も有名な観光スポットである、シティセンターにあるアルバート・ドックを訪ね

1967年に5年の工事で完成したカトリックの大聖堂であるメトロポリタン大聖堂、英国国教会の大聖堂であり、着工から74年をかけ、1978年に完成したを訪ねて旅を終える。

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次回は引き続きアイルランドを訪ね歩く旅となる。

コメント

  1. […] 次回は英国とアイルランドを訪ね歩く旅となる。 […]

  2. […] 「街道をゆく」第31巻より。 前回はアイルランド紀行、英国を尋ねる旅であった。今回は引き続きアイルランドを訪ね歩く旅となる。 […]

  3. […] スペインとポルトガル“、そしてアイルランドに関しては”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“、”街道をゆく アイルランド紀行(2) […]

  4. […] 次に広まったのが”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“でも述べている英国となる。 […]

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