街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道をゆく22巻23巻より。 前回は、戦国時代に日本を訪れ大きな影響を及ぼした南蛮人であるフランシスコ・ザビエルの足跡を辿り、フランスパリからスペインのバスク地方まで訪ね、次に戦国時代の日本人から南蛮と呼ばれた国、スペインポルトガルを訪れた旅について述べた。今回は引き続き南蛮のみちとして、スペイン/ポルトガルを巡る旅となる。

スペインは、イベリア半島の大部分を占めるヨーロッパ南西部に位置する国となる。(首都はマドリードで、公用語はスペイン語(カスティリア語))。スペインは古代から多くの文明によって影響を受けている。歴史に現れるのも古く、クロマニョン人スペイン北部にてアルタミラ洞窟の壁に動物画を残しものから始まり、

紀元前12世紀フェニキア人がイベリア半島に進出。フェニキア人はヨーロッパで最古の都市カディスを建設し、数字やアルファベットを伝え、紀元前1000年ごろ、ガリアケルト人ピレネー山脈を越えてイベリア半島に進入し、ギリシャ人もイベリア半島を訪れるようになり、その頃からイベリア半島は数多くの地域と交易をするようになっていった。

紀元前2世紀ローマカルタゴが争ったポエニ戦争の影響を受け、イベリア半島はその2つの国から狙われることとなり、イベリア半島はお互いの陣営による激しい攻防戦が続けられていたが、最終的に紀元前205年ローマ軍の手に落ち、その後長い間ローマの支配を受けることになった。

その後、しばらくローマの支配が続いたが、415年に南下してきた西ゴート族によって西ゴート王国が建国され、560年に西ゴート王国はトレドに遷都した。ここで、北アフリカにあったイスラム帝国が711年にジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ上陸し、グアダレーテの戦いで西ゴート王国を滅ぼし、その後しばらくイスラム勢力による統治が続き、スペインはイスラム文化の影響を強く受けることになる。

その後、スペインに残っていたカスティーリャ王国アラゴン王国などのカトリック勢力が合併によって成立したスペイン王国が、1492年にイベリア半島のイスラム勢力を滅ぼし、現在のスペインに繋がっていく。このカトリック勢力による活動はレコンキスタ(再征服運動)とも呼ばれている。

スペイン統一の後、スペインの目は外に向けられ、ジェノヴァ人クリストファー・コロンブス(クリストーバル・コロン)による新大陸の発見と植民地化に進む。1521年にはエルナン・コルテスアステカ文明を滅ぼし、1520年代中にはペドロ・デ・アルバラードマヤ文明を滅ぼし、続いて1532年フランシスコ・ピサロインカ文明を滅ぼし、スペイン人によって三つの文明が滅ぼされ、アメリカ大陸本土はあらかたスペインの植民地となった。

アステカ文明の翡翠の仮面

マヤ文明のピラミッド

インカ文明の空中都市マチュピチュ

このような多大な犠牲の元スペインには大量の銀がもたらされ、スペイン黄金時代を築くことになった。このようにアメリカ大陸からヨーロッパに流出した大量の銀のために、欧州ではインフレが起き、それらが産業革命につながっていった。しかしながら、それらの産業革命はオランダやイギリスといった当時の新興国で興ったため、スペイン国内では蓄積も産業形成もなされずに、これら西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積過程を支えるだけとなっていった。このような歴史の流れについて、司馬遼太郎は与えられた秩序を大事にするカトリックの教えと、自らの努力を尊しとするプロテスタントの教えの違いにより生じたものであると推測している。

この時代は日本では戦国時代にあたり、日本を訪れていたスペイン人は南蛮人と呼ばれ、世界の情報を日本に伝える役割を担っていた。

16世紀中頃から17世紀前半までがスペインが繁栄した時期であり、スペイン史上「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれている。それらの時代の中でスペインフェリペ2世の時代に、新大陸からもたらされた富で最盛期を迎え、マドリードに遷都しエル・エスコリアル宮殿を営んでいる。

スペイン1580年にはポルトガルを併合したことで、ブラジルアフリカインド洋に広がっていたその植民地をも獲得し「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるようになっていた。

これに対して、1588年に アルマダ海戦スペイン無敵艦隊イングランド海軍に敗れると次第に制海権を失って行い、スペインの力は衰退していき、逆にイングランドはこの後、徐々に力をつけ、1世紀ほど後の17世紀後半には海上を制するイギリス帝国へと発展していく。

司馬遼太郎一行はエル・エスコリアルを訪れた後はポルトガルに向かう。移動に利用したものは1970年代にアランドロン主演で映画化もされたリスボン特急を利用している。

ポルトガルは、スペインと同様にイベリア半島の西端に位置する国、首都はリスボン、公用語はポルトガル語となる。地形的には、ポルトガルは大西洋に面しており、西側と南側は海に囲まれ、スペインとの国境を接しており、北側はアトランティック海岸線が広がっている。内陸部は起伏に富んだ山地が広がり、アルガルヴェ地方は美しい海岸線が特徴的となる。

ポルトガルは海に向かって開かれた国となっているためケルト人、ローマ人、ゲルマン人、アラブ人等様々な民族が移住して混血が進んだ国となった。イスラム教の支配まではイベリア半島の国であるスペインと同じような歴史を歩み、レコンキスタ(再征服運動)の時代1100年頃にポルトガル王国を作り上げている。その後国内外の貿易活動が活性化し、経済活動は最盛期を迎え、特にドン・エンリケ(エンリケ航海王子)らの積極的な海外進出により、アフリカ大陸沿岸の探索とアフリカ大陸最南端の喜望峰の発見と、にヴァスコ・ダ・ガマがによるインド航路の発見等、大航海時代の中心的な役割を果たした。

日本に対するヨーロッパの接触に関しても、”街道をゆく 唐津・平戸・佐世保・長崎への道“や”街道をゆく 種子島と屋久島と奄美の島々“に述べているように、鉄砲伝来やキリスト教の伝来、また様々なヨーロッパ由来の物品の貿易に深く関わってきた国となる。

現在我々が使っている「パン、コンペート、マルメロ、フラスコ、ビードロ、ボタン、カッパ、 マント、ジバン、ラシャ、シャボン、カルタ、タバコ、サフラン、カナキン、カステラ、コンパス、メリアス、サラサ・オルガン」などの言葉はすべてポルトガル語が由来の言葉であり、中世の南蛮貿易によって日本にもたさられたものとなる。

そのように勢いのあったポルトガルも、1580年のポルトガルでの国王の後継者の争いが勃発したときに、スペインの国王も後継者の一人として名乗り出てその戦いに勝利、スペインポルトガルを併合することとなり、海外のポルトガルの植民地もすべてスペインのものとなるという事件が起き、ポルトガルの影響力は一気に萎んでしまう。

1580年は、日本では関ヶ原の戦いの20年前であり、この流れから日本からもポルトガル人はいなくなり、代わりにイギリス人やオランダ人が鎖国時代の長崎の出島に入ってくることとなる。

司馬遼太郎一行はポルトガルではリスボンを中心に史跡を周り

さらにヨーロッパの南西の果てにあるサグレス岬やサン・ヴィンセンテ岬を巡って旅は終わる。

次回は新潟県佐渡島の旅について述べる。

コメント

  1. […] 街道をゆく10巻より。 前回は南蛮のみちとして、スペイン/ポルトガルを巡る旅について述べた。今回は新潟県佐渡島となる。 […]

  2. […] “街道をゆく 高野山みち(真田幸村と空海)“でも述べている空海は、平安初期(西暦800年前後)の僧侶で、弘法大師とも呼ばれ、真言宗の開祖となる。四国遍路は四国4県を一周し、空海の修行の足跡を辿る全長約1400kmの巡礼の旅となる。これに対して”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“にも述べているスペインのサンティアゴ巡礼ではサンティアゴ・デ・コンボステーラの大聖堂を目指すもので、日本の「参り」「詣で」に近いものとなる。 […]

  3. […] これに対して”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“にも述べているスペインのサンティアゴ巡礼ではサンティアゴ・デ・コンボステーラの大聖堂を目指すもので、日 […]

  4. […] ニューヨーク市はニューヨーク州の南東部に位置し、ワシントンD.C.とボストン(マサチューセッツ州)のおよそ中間に位置しており、緯度は日本での青森市、中国の北京、トルコのアンカラ、”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べたスペインのマドリードとほぼ同じ位置となる。 […]

  5. […] 次回は引き続き南蛮のみちとして、スペイン/ポルトガルを巡る旅について述べる。 […]

  6. […] 本ブログでは、司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに日本国内、あるいは海外の彼が関心を持って訪れた国について述べている。「街道をゆく」耽羅紀行の中で彼は、行きたい海外の国々として、モンゴル高原と、ピレネー山脈、アイルランド島とハンガリー高原に行きたいと述べている。それらの中で、モンゴル高原に関しては”街道をゆく モンゴル紀行“にて、ピレネー山脈に関しては”街道をゆく 南蛮のみち(1) ザビエルとバスクについて“、”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“、そしてアイルランドに関しては”街道をゆく アイルランド紀行(1) 英国の旅“、”街道をゆく アイルランド紀行(2) アイルランド“でそれぞれ訪れ、思いを遂げている。 […]

  7. […] 最初に台湾を訪れたヨーロッパ人は”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“でも述べている大航海時代に入ったポルトガル人で、その時に台湾の美しさに感動して発し […]

  8. […] オランダは、元々スペイン=ハプスブルク家領としてスペイン王に支配されていたが、中世末期から毛織物業などの産業を発展させ、16世紀からは新教徒のカルヴァン派が多くなり、この地を所有していたスペインは”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べているようにカトリックの守護者の立場の国であるため、カトリックを強制したことに反発して1568年から反乱を開始、オランダ独立戦争に発展した。1581年には独立宣言を行い、その後独立承認まで80年間かかり、1648年に国際的に独立承認される。日本では、関ヶ原の戦いから徳川幕府成立の頃にあたる。 […]

  9. […] イギリスの歴史。イギリスの主島であるグレートブリテン島には紀元前9世紀ころから紀元前5世紀ころにかけて”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“でも現れるケルト系民族が侵入し、それにより鉄器時代が始まり、ブリテン島各地にケルト系の部族国家が成立している。 […]

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