浮世絵と新版画 – アートの世界の古き良きもの

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浮世絵と新版画 – アートの世界の古き良きもの

現在、「新版画」がアートファンの間でちょっとしたブームになっていると言われている。以前海外アーフィストの来日インタビューを読んだ時にも、日本で何をしたかというお決まりの質問に対して、「版画を購入した」という答えが返っていた。

新版画は、江戸時代以来の浮世絵制作の伝統を受け継ぎながら、大正時代~昭和前期までの約50年程度の間に制作された、非常にニッチな木版画のジャンルだが、ここ最近、この「新版画」の系譜に連なる作家たちが次々とブレイクを果たしていたり、ここ数年全国各地で美術展が開かれている。

新版画 進化系UKIYO-Eの美(2022/9/14-11/13)@千葉市美術館

THE 新版画 版元・渡邊庄三郎の挑戦(2022.9/10-11/6@茅ヶ崎美術館)

過去の著名な新版画としては小原古邨(おはらこそん)、吉田博(よしだひろし)、川瀬巴水(かわせはすい)等がいる。例えばノスタルジーな画風な川瀬巴水の版画集はamazonの電子版にて廉価で手に入れて見ることができる。

新版画の元となる浮世絵について少し述べたいと思う。そもそも浮世絵の「浮世」は室町時代には「憂き世」と書かれ、「世の中は生きていくだけでつらいことばかりだ」という意味に使われていた。戦乱の時代であった室町時代が終わり、平和な江戸時代になるとこの「憂き世」は「浮き世」へと変わり、「どうせ夢のように儚い、苦しい世の中ならいっそうそれを楽しみ、浮かれて暮らそう」という刹那的な、現世を肯定する意味へと変わっていく。

浮世絵のルーツは、室町時代末期に、戦乱のため荒れ果てた京都の町を建て直してきた町衆の活気あふれる暮らしぶりに注目した、当時の支配階級である武家や貴族、地方の有力者が、商いや参拝の様子、遊び戯れる男女や子供など、祭りや踊りなどの風俗を細かく描いた屏風や絵画を制作させたことから始まる。それらの中で著名なものとしては岩佐又兵衛による洛中洛外図屏風などがある。

当初は、都の案内絵図として描かれていたものが、次第にそこにいる人やふるまいがクローズアップされてくるようになる。

これが江戸自体になると、風俗画はスケールダウンし、これまで大きな屏風に書かれていたものが中屏風や腰屏風といった小さな画面に絵かがれようになり、さらに題材も京都の雅な風俗ではなく、江戸の二大悪所と呼ばれる芝居小屋(歌舞伎)や遊里(吉原遊廓)が題材となり、絵師も武家お抱えの名門である”雪舟の後を継ぐ長谷川等伯と狩野派“でも述べている狩野派から、落款(らっかん:署名印)もない無名の絵師へと変わっていった。

対象となる人物は美人だというのは、現在までも変わらないものだが、室町時代のそれが貴族のお姫様であったのに対して、江戸自体は遊里の湯女へと変わり、身分が高い女性から低い女性へ、さらに”大勢の中の一人”として描かれいた女性が、単独で描かれるようになっていった。

作画技術の面から見ると、ヨーロッパや朝鮮から伝わった活字印刷(グーテンベルクが活字印刷を始めたのが1400年代半頃で室町時代の半ば頃にあたる)を元に、室町時代の後期(1500年中頃)に印刷技術が発達し、江戸時代初期(1600年代初期)には、嵯峨本や仮名草紙とよばれる「版本(はんぽん)」が盛んとなり、そこには木版で美しい挿絵が添えられ、その挿絵が次第に大きくなっていった。

その江戸時代初期に現れたのが「見返り美人」で有名な菱川師直で、大名の参勤交代等で日本中から人が集まり当時の世界の中でも有数の人口を誇った江戸の町(18世紀には100万を超えたと言われ、当時のロンドンの人口(約90万人)やパリ(約70万人)に匹敵する)にいる庶民の娯楽を満たすため、安価な版画をエンターティメントとして提供したことから始まる。

師宣の版画は、黒一色かそれに手彩色を施したものでまだまだコストがかかるものであった。これに対して「見当(けんとう)」と呼ばれる紙の端に当てるマークを使うテクニックが洗練され、5色以上の多色刷りを低コストにできるようになり、従来の版画に比べて際立って鮮やかなにり、京都・西陣の錦の織物のようだと言われ「吾妻錦絵」が作られるようになった。錦絵で有名な絵師としては美人画で有名な鈴木春信がいる。

鈴木春信の簡略化された線や構図/色彩のセンスは現在のファッションイラストレーションにも通じるものがある。

江戸中期になると、版元蔦屋重三郎(現在の書店大手企業であるTSUTAYAの社名は、創業者の祖父の屋号が「蔦屋」であったのと、この蔦屋重三郎にあやかってつけたものだと言われている)と喜多川歌麿のコンビによる「美人大首絵」という美女たちのバストアップの絵を作り出し、大ヒットとなる。

また、同じく蔦屋重三郎とタッグを組んだ東洲斎写楽は、さらに独自の造形美を極めた役者絵を生み出し、こちらもセンセーションを巻き起こした。

江戸時代も終わりに近づく19世紀に入ると、文化や経済が爛熟する。その一方で天災や幕末の様々な事件により、人々の心に闇が広がり、浮世絵にも「奇想」といえる表現が現れ始める。伝奇的な小説、読本の挿絵を手がけた葛飾北斎は、幽霊などが登場するグロテスクで幻想的な画面を展開した。

また北斎は、街道の整備による日本国内の旅ブームを背景に「富嶽三十六景」で風景画という新しいジャンルを確立した。

幕末に現れた歌川国芳は、洋風表現を取り入れた風景がや、金魚やほおずきを擬人化したり、裸体の集合体で人の顔を形作るなどさらに独自の造形の作品を作り上げた。

そのような浮世絵も、前述のように蕎麦一杯分(現在の値段だと300〜500円)で買える庶民の娯楽であり、楽しむためのもので飽きたら捨てられるようなものであったものが、1867年にパリで万国博覧会が開かれた時、参加していた徳川幕府が現地で売って旅費の足しにしようと持っていったものが飛ぶように売れ、海外で一大ブームとなり、世界的にも芸術として認められるようになった。

新版画は、そのように海外に売れる浮世絵を、復刻版として再現して商売しようとした版元(茅ヶ崎美術館でテーマとなっている渡辺庄三郎等、現在でも銀座に渡辺木版画店はある)が大正に入り、当時の画家に今風の浮世絵を作ろうと呼びかけたことから始まる。

当初はその呼びかけに対して賛同してくれるものたちはほとんどおらず、来日したフリッツ・カベラリの”鏡の前の女”や

チャールズ・バートレットによる”The Duke, Hawaiian Duke Kahanamoku Surfing”等の水彩画家とのコラボで様々な版画作品が生まれた。

上記の絵は、現代サーフィンの始祖と呼ばれるデューク・カハナモク(ワイキキビーチに銅像がある)を描いた一枚となる。

それらをきっかけとして、伊東深水、川瀬巴水をはじめとした多くの作家たちから、数々の作品が誕生したものとなる。

この「新版画」というジャンルは、昭和高度成長時代に一旦力尽き廃れてしまっていたものが、近年その価値が再評価されており、冒頭に述べたように、海外のアーティストに支持されたり、国内でも頻繁に展示会が開かれているものとなる。

ひたすら新しいものを求めるだけではなく、古き良きものを見つけ再評価する、このような温故知新はアートの世界だけではなく以前”AAAI Classic Paper人工知能技術の温故知新“に述べた技術の世界にも当てはまるのではないかと思う。

コメント

  1. […] 浮世絵と新版画 – アートの世界の温故知新 […]

  2. […] たこの流れは、西洋文化を尊び日本文化を棄却する流れとなり、”浮世絵と新版画 – アートの世界の古き良きもの“でも述べているように、現在では評価されている浮世絵も、当 […]

  3. […] その後、清教徒革命と名誉革命の2つの大きな市民革命を経験し、1700年頃(日本では5将軍綱吉の時代で”浮世絵と新版画 – アートの世界の温故知新“で述べるような浮世絵が流行り元禄文化が成熟してきた時代)に議会が成立し、本格的な市民社会となると共に”街道をゆく 南蛮のみち(2) スペインとポルトガル“で述べたように没落してきたスペイン・ポルトガルに代わり大航海時代に入り、インドや北米大陸に多数の植民者を送り出した。司馬遼太郎によると、これはカトリックをベースとした国家であるスペインやポルトガルは垂直統合型の組織で社会の発展が持続可能ではなく頭打ちになってしまうのに対して、イギリスやオランダなどのプロテスタントの国では市民の自立が重視され、社会の発展も大きくなるというものらしい。 […]

  4. […] 江戸時代には”浮世絵と新版画 – アートの世界の温故知新“に述べた浮世絵も一つのジャンルとして確立していく。 […]

  5. […] この時代は”街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆“でも述べた紀州(和歌山)出身の徳川吉宗の時代で、庶民文化が花開き”浮世絵と新版画 – アートの世界の古き良きもの“でも述べた浮世絵が多く作られた時代でもある。 […]

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