街道をゆく 信州佐久平みち(長野)

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第9巻 佐久平道

前回の旅は高野山みちであった。今回の旅は長野県、信州佐久平みちとなる。旅の起点はJR長野駅から、中世信濃武士団の興亡を追って、上田市で前回”街道をゆく 高野山みち“で述べた真田氏を思い、最初の宿泊地である別所温泉では、この地を訪れた捨聖・一遍の、すべてを捨てて求道を貫いた生を考える。翌朝、常楽寺、安楽寺を訪ね、軽井沢の佐久平に向かう。南軽井沢に泊まった後、旧中山道沿いの望月宿をめざし、信州の牙は木曾義仲の軍事の要であったこと、清少納言「枕草子」の望月宿の記述へ思いをはせ、旅を終える。

今回の旅は長野県を巡り、長野、軽井沢、佐久平を巡る旅となる。長野県は日本の中央に位置し、に面していない内陸県であり、日本アルプスを始め大規模な山岳地がある山々に囲まれた自然豊かな場所となる。

また、令制国名の信濃国にちなみ、信州とも呼ばれている。古くから東山道中山道が横断し、東日本西日本を繋ぐ交通の要所であったことから、信州へ通ずる道や旅路は信濃路木曽路と呼ばれ、現在でも風光明媚な古道や山間の宿場町の遺構などが各地に残存している。

丘陵や山脈がそびえ立ち旅行者の通行を困難にさせたことから、旅行者の安全を守る”街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べた道祖神の遺跡も多く点在する。

古代から中世は、丘陵や山脈が多く自然条件の厳しい地域であったが、明治以後は鉄道などの開通により三大都市圏からのアクセスが良好になり、軽井沢上高地を筆頭とした高原リゾート山岳リゾートが多いことでも知られている。

歴史的には、古代から土器をつくって定住する人々が現れ、長野県域では八ヶ岳山麓を中心に大規模な集落が誕生している。さらに、時代が進み、善光寺平南部の支配者たちは畿内(きない)に誕生したヤマト王権と結びつき、(こうしょく)地方に前方後円墳を築造している。

飛鳥時代には、「科野国(しなののくに)」が成立し、704年には信濃国(しなののくに)の印がつくられ、この頃から「信濃」の文字が公的に使用されるようになった。

10世紀頃になると、信濃国には清和源氏(せいわげんじ)が信濃守として任官し、そのまま土着して武士団を形成していく、この集団が信濃武士団と呼ばれ、信濃源氏からは木曽義仲(きそよしなか)が出て、平安時代末期の源平合戦において平家(伊勢平氏)政権打倒に大きな貢献を果たす。

木曽義仲は、従兄弟である源頼朝の命を受けた源義経によって滅ぼされ(頼朝の弟である源義経も最終的には頼朝により滅ぼされてしまう)、その後信濃国は北条氏により管理され、鎌倉幕府が滅びると、混乱期を迎え、国人衆の反乱は頻発し、信濃国内には自立した強大な大名が誕生しないまま、応仁の乱、戦国時代を迎える。戦国時代に隣国の甲斐でいち早く戦国大名化した武田信玄により、信濃は掌握され、”街道をゆく 潟のみち(新潟)“でも述べているもう一つの隣国である越後の上杉謙信との戦いが繰り広げられる。

上杉謙信/武田信玄は、有名な川中島の戦いでも5回戦ったが決着はつかず、それぞれが病没することで、この地域は再び混沌とし、”街道をゆく 高野山みち”でも述べているように上田市では、真田昌幸により統治されるが、昌幸/幸村親子も徳川家康に敗れ、徳川側についていた昌幸の長男である信幸により松代藩が起こされ、松代藩を筆頭とし、信濃国内には江戸時代を通じて合計19藩が置かれ、また天領と呼ばれる徳川家直轄の領地も信濃国内に多く存在することとなる。

司馬遼太郎たちは、今回の旅でまずJR長野駅に降り立つ。現在の長野駅はモダンなデザインで建築された”個性的なデザインの駅10選“にも選ばれたものとなる。

また、長野は日本最古の仏像と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)がある善光寺がある街でもある。

長野からは前回”街道をゆく 高野山みち“で述べた真田氏の作った上田城を通り、別所温泉に向かう。

別所とは、”街道をゆく 高野山みち“でも述べているように、仏教寺院の本拠地を離れた所に営まれた宗教施設であり、聖とよばれる僧侶が寺院周辺などに集まって修行するために庵や仏堂を設けた場所となる。つまり別所温泉は、温泉仏教施設とでも言うべきものとなる。

司馬遼太郎の訪れた別所温泉の近くの常楽寺の北向観音堂に奉納されている絵馬は「踊り念仏」と「六歌仙」と呼ばれるものとなる。

「踊り念仏」は六人の踊り手が、満面笑みを浮かべ床が踏み割れんばかりに楽しそうに、しかもにぎやかに踊るもので、「踊り念仏」の由来は一遍上人がおこした念仏三昧〔ねんぶつざんまい〕の踊りとなる。

この一遍上人は鎌倉時代の僧侶であり、時宗の開祖でもある。街道をゆく – 南伊予・西土佐の道 坂の上の雲と南国の伊達家“で述べている伊予国(愛媛県)松山市の出身となる。時宗は浄土宗の流れを汲み、浄土教では”禅の思想と歴史、大乗仏教、道の思想、キリスト教“でも述べているように阿弥陀仏への信仰がその教説の中心で、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説かれていたが、時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いていた(仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈)。

一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、この名の通り、一遍は各地を行脚し、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」で、民衆を極楽浄土へ導いていたとされている。

別所温泉を後にした一行は、国内有数のリゾート地であり、観光施設とリゾートホテルが多く点在する軽井沢で一泊し、旧中山道沿いの望月宿に向かって旅を終える。

次回の旅は、”笈の小文”を辿る旅と「街道をゆく」第7巻より淡路・明石の旅となる。

コメント

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  2. […] 第七巻より。 前回の旅は長野県、信州佐久平みちであった。今回の旅は、”笈の小文”を辿る旅と「街道をゆく」第7巻より淡路・明石の旅となる。 […]

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