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サマリー
旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。
前回の旅は長野県、信州佐久平みちであった。今回の旅は、”笈の小文”を辿る旅と「街道をゆく」第7巻より淡路・明石の旅となる。“街道をゆく 秋田散歩と松尾芭蕉と菅江真澄と人形道祖神“でも述べている松尾芭蕉は有名な奥の細道以外に”野ざらし紀行”、”鹿島紀行”、 “笈の小文”、 “更科紀行”と4つの紀行文を書いている。
その中で”笈(おい)の小文”は、1687年10月、江戸深川を出立し一路東海道を下り、伊良湖を経て伊賀に帰郷し、新年を迎え、春三月、弟子の杜国(とこく)とともに吉野、高野山、和歌浦、奈良、大阪、須磨、明石を巡った旅の紀行となる。
芭蕉は旅から数年を経た頃に、この紀行文の成立に向け力を注いだが、未定稿のまま門人乙州に預けて江戸に戻っており、この紀行文は、芭蕉没後15年を経た宝永6年(1709)に乙州により刊行されている。この紀行文は『笈の小文』や、卯年(貞享4年)から辰年(同5年)に至るので『卯辰紀行』とも称されており、序文で、芭蕉の「道すがらの小記を集め」たものと述べているように、風雅論、紀行論、旅論等が収載されており、必ずしもまとまった紀行文ではないが、長編よりも短編紀行文的な発想や、発句を一まとめにして作品に発表されたことが注目されているものとなる。
また、司馬遼太郎の「街道をゆく」明石海峡と淡路みちでは、笈の小文の終点である明石からスタートし、当時は淡路大橋がなかった為、林崎漁港から播淡汽船で淡路島に上陸するというルートの旅について記載されている。
まずは”笈の小文”より。
旅人と 我が名呼ばれん 初しぐれ
芭蕉はこの句を詠んで”街道をゆく 本所・深川界隈“でも述べている江戸・深川より西に向け旅立っている。芭蕉にとっては”野ざらし紀行”、”鹿島紀行”に続く、3回目の紀行となる。ここで主題の中にある笈は、「箱型のつづら。仏具や衣類などを入れ背負う」とされていて、時代劇などで僧がよく背負っている、今日でのバックパックとなる。
“野ざらし紀行”と”笈の小文”はともに江戸を出立し、郷里の伊賀を経由して関西方面を巡っているが、前者は東海道からスタートしているのに対して、後者はいきなり愛知県の鳴海から伊良湖に向かうことから始まっている。伊良湖は、名前に湖がつくが海に突き出た岬であり湖ではない。
伊良湖までは、新幹線で豊橋駅まで向かい、豊橋鉄道に乗り換え終点三河原田まで行き、豊鉄バスで伊良湖に向かうというルートとなる。ここで芭蕉は
鷹一つ 見つけてうれし いらご崎
と詠んでいる。その後芭蕉は”街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち“でも述べた故郷の伊賀に向かう。伊賀で越年して翌年1688年、芭蕉は伊賀から伊勢に向かい、桜で有名な吉野に向かい
よし野にて 我も見せふぞ 檜の木笠
と詠んでいる。
伊勢から吉野山へのルートは、奈良県桜井市長谷寺、”街道をゆく – 葛城みち“でも述べた葛城、”街道をゆく- 竹内街道と古代日本“で述べた三輪山、多武峰(とうのみね)、蜻蛉(せいれい)が滝、そして吉野となる。
現在の伊勢から吉野までのルートは、近鉄に乗り、伊勢市、伊勢中川、大和八木、橿原(かしはら)神宮前、吉野と2時間ほどの旅となる。
芭蕉は3日間吉野に滞在し、次に”街道をゆく 高野山みち“で述べた高野山に向かう。現在では、吉野から高野山へは近鉄吉野駅から近鉄で吉野口へ向かい、JRに乗り換えて橋本で南海鉄道に乗り換えて極楽橋で高野山ケーブルに向かう2時間30程度の旅程となる。
高野山からは”街道をゆく紀の川流域の根来寺と雑賀衆“でも述べている紀州和歌浦に向かい、紀三井寺へと芭蕉は行く。
行春に わかの浦にて 追付きたり
和歌浦からは奈良、大阪を経由して、兵庫県の須磨、明石に向かう。現在では、和歌山から須磨までは、和歌山駅から大阪の新今宮まで南海電鉄に乗り、新今宮から三宮までJR、その後阪急線、高速神戸、JRを乗り継いで須磨浦公園に着く2時間30程度の旅となる。
須磨は、源平合戦(治承・寿永の乱)における一の谷の合戦の古戦場として有名な場所であり、「街道をゆく」第7巻より淡路・明石の旅でも述べられている。
一の谷の合戦は、”街道をゆく – 長州路“でも述べた源氏と平氏の戦いで、平氏の滅亡の”終わりの始まり”とでも言うべき戦いで、元々”街道をゆく 信州佐久平みち(長野)“でも述べた木曽義仲に敗れて九州に逃げ延びた平家が、木曽義仲を源義経が滅ぼすという内輪揉めに乗じて、九州・四国で軍勢を集めて須磨に再上陸して京都に攻め上がる準備を始めた。
これに対して、義経は”街道をゆく – 丹波篠山街道“に述べたように、山側を経由して一ノ谷の裏手の断崖絶壁から精兵70騎を率いて奇襲し、平家の軍勢を混乱に貶め、戦いを勝利に導いた。
平家はその後、四国の屋島でも敗戦し、最終的に山口の壇ノ浦で滅びる。
“笈の小文”は須磨から、駅弁「ひっぱりだこ」でも有名な明石で終わる。
街道をゆくは、この須磨・明石から、”街道をゆく 阿波と淡路島の旅と歴史“で述べている淡路島に向かい終える。
次回の旅は司馬遼太郎の長年の鉄に関する関心から、島根県の出雲から岡山県の吉備までのたたら製鉄の跡を訪ねる旅となる。
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[…] 笈の小文と街道をゆく-明石海峡/淡路みち […]
[…] 「街道をゆく」第7巻より。 前回は松尾芭蕉の”笈の小文”を辿る旅と「街道をゆく」より淡路・明石の旅であった。今回の旅は司馬遼太郎の長年の鉄に関する関心から、島根県の出雲から岡山県の吉備までのたたら製鉄の跡を訪ねる旅となる。旅は米子空港から始まり、雲伯国境の安来市に入り、「和鋼記念館」を見た後、八岐大蛇が退治されたという鳥上木(船通山)の麓にある鳥上木炭銑工場を訪れた。その後、宍戸湖畔を西進、光明寺で朝鮮鐘と対面、斐伊川を遡って、吉田村で現存する日本唯一の近世たたら遺跡「菅谷たたら」を訪ねる。さらに出雲街道の難所・四十曲峠を越えて岡山に入り、湯原温泉に行く。最後に加茂町で万灯山古墳を見た後、作州津山に入る旅となる。 […]