街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第7巻 甲賀と伊賀の道

前回鹿児島県の種子島屋久島奄美諸島の旅であった。今回は、甲賀伊賀信楽のみちとなる。

旅は伊賀上野城から始まる。伊賀上野城は戦国末期の城であり、織田信長伊賀を平定した後何代も城主は代わり、徳川家康が大阪城を攻める計画を立てていた時の城主は東堂高虎が城主となり、大坂冬の陣の際に万一敗北したときの最後の砦として作られたものとなる。

この伊賀を舞台とした小説「梟の城」は、司馬遼太郎が初めて賞(直木賞)を取った作品で、ここから彼の時代小説が始まったものでもある。この作品は、1963年と1990年に2度映画化も行われている。

「梟の城」の最初の場面は御斎峠(おとぎとうげ)から始まっている。この御斎峠を挟んだ伊賀の反対側が甲賀であり、どちらも京都に近く、都に乱があるときは、甲賀伊賀の次男坊以下が足軽として雇われ、そのうちに戦場諜報の技術を身につけ、草や池に潜んだり、放火をしたり、遠く敵地に潜入して敵情をさぐるといった能力が磨かれていき忍者となっていったとされている。

甲賀伊賀者は、京の権力の内情にも詳しく、事情だけでなく、権力の内部にいる人物たちの才覚、性格、それに顔つきまで知っていて、そういう知識が戦国時代の諸国の大名や小名に役立ち、豪族の館に「伊賀の何右衛門の手のものでござる」というだけで泊めてもらえたらしい。

御斎峠は伊賀盆地を見下ろす山の上にある。

伊賀側から御斎峠を超えると、近江国の甲賀となる。甲賀には五十三の小豪族がおり、それぞれが一種共和制に似た談合組織を作り、それらが「甲賀五十三家」と呼ばれていた。

甲賀の忍者が歴史に大きく出てきたのは、室町時代の足利義尚(よしひさ;有名な日野富子が産んだ子)と近江守護大名である六角高頼の争いとなる。この戦いで六角高頼が敗れ甲賀衆が匿い、更に侵入してきた義尚らをゲリラ戦法で破り、更にはその時に義尚が病死したことから、後々に尾鰭がついて甲賀伊賀伝説が形作られていったと司馬遼太郎はしている。

御斎峠を越えると、最初の山里が”多羅尾“となる。この多羅尾にいた多羅尾道可という人物が武略家であったことから、織田信長にかかえられそれに属した。それに対して伊賀衆は織田信長に反発し、織田勢の伊勢・伊賀入りのときにほとんど殲滅されるほどの打撃をうけてしまう。

甲賀衆はその後も時の権力にうまく乗り、織田期以降、大名もしくはそれに近い身分になったものが多々出てくる。

古い昭和の映画である「7つの顔を持つ男」多羅尾 伴内も、この甲賀の忍者というイメージから作られたという説もある。

多羅尾伴内は「多羅尾探偵事務所」を開設する飄々ととぼけた感じで風采の上がらない私立探偵であり、いつもユーモラスにひょこひょこと歩く。怪事件が発生すると警察を訪れて情報交換をしながら調査を開始し、変装の趣味があるのか、多羅尾伴内は調査に当たって次から次へとちがう謎の人物に変装してゆく。彼が変装するのは、多羅尾自身や「片目の運転手」「せむしの男」のような冴えない人物か、「手品好きのキザな紳士」「奇術師」「インドの魔術師」あるいは「中国の大富豪」のような風変わりな人物が多い。映画の観客から見れば同一人物であることは一目瞭然なのだが、なぜか他の登場人物たちには少しも気づかれる様子がなく、多羅尾および彼が変装した5人の人物の調査・工作によって事件はかき回され、解決するどころかかえって事態は複雑化して、それに巻き込まれてしまった人物が死にいたることすらしばしばある。こうして伴内は、事件に関連する人物群を網羅的に掌握し、彼らが大団円の舞台へ集まるように誘導工作をする。

古き良き時代の映画の世界が想像できる。

多羅尾を超えてしばらく行くと、信楽(しがらき)の盆地に出る。ここは焼き物でで有名な街であり、また古代は聖武天皇紫香楽宮という都を作った場所でもある。聖武天皇は”仏教と経典と大乗仏教の宗派について“にも述べている法華経の世界観を信じ、仏により世界が救われるとして奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)を作った天皇でもある。

信楽焼日本六古窯のひとつに数えられており、信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えているものとなる。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。

信楽焼は主に茶道具や庭園の石灯籠、水盤、花器などとして使われているが、近年ではインテリア雑貨や食器としても人気があり、その独特の風合いや手作り感、自然と調和するデザインが、多くの人々に愛されているものとなる。

信楽焼で有名なものにたぬきの置物がある。

信楽焼の狸の置物の歴史は比較的浅く、明治期に陶芸家藤原銕造が作ったものが最初と言われている[10]1951年(昭和26年)、昭和天皇信楽行幸の際、たくさんの信楽狸に日の丸の小旗を持たせ沿道に設置したところ、狸たちが延々と続く情景に感興を覚え、御製を詠んだ逸話が新聞で報道され、全国に知られるようになった。

この置物は縁起物として喜ばれ、狸が「他を抜く」に通じることから商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれることが多い。信楽焼八相縁起に因んで福々とした狸が編み笠を被り少し首をかしげながら右手に徳利左手に通帳を持って突っ立っている、いわゆる「酒買い小僧」型が定番となっている。

次回の旅は大分県を中心に、全国に4万社余りあるという八幡神の故郷、大分県の中津・宇佐と、温泉の街、由布院と九州の小京都とよばれる日田となる。

コメント

  1. […] 前述の鴨(賀茂)一族は、陰陽師として有名な安倍晴明や”街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち“でも述べた忍者の始祖とも呼ばれる役行者などがいることでも有名な一族となる。 […]

  2. […] 街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち […]

  3. […] 高知は古代から歴史に現れる。古代からある土佐神社に祀られる阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は大国主神と宗像三女神の多紀理毘売命の間の子とされており、”街道をゆく – 葛城みち“で述べた賀茂一族が祀っていた神でもある。鴨(賀茂)一族は、陰陽師として有名な安倍晴明や”街道をゆく 甲賀と伊賀の信楽のみち“でも述べた忍者の始祖とも呼ばれる役行者などがいることでも有名な一族となる。 […]

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  5. […] 次回は、甲賀と伊賀の信楽のみちとなる。 […]

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