街道をゆく – 甲州街道と江戸幕府

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サマリー

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く第1巻 甲州街道

前回竹内街道について述べた。今回は、甲州街道江戸幕府について述べる。

甲州街道と江戸幕府

今回は舞台が関東に移り、甲州街道八王子に向かう。この地の歴史的エピソードとしては、太田道灌が詠んだ武蔵野の広さや、「更級日記」に出てくる坂東人秀吉家康の連れションの話、八王子千人同心近藤勇と最後に徳川慶喜について述べられている。

話は武蔵の国太田道灌から始まる。

太田道灌室町時代後期に関東地方で活躍した武将で、江戸を開拓し江戸城を構築したことで有名である。また、以下の逸話でも有名な人物でもある「道灌が父を訪ねて越生の地に来たとき、突然のにわか雨に遭い農家でを借りようと立ち寄った先で、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは『後拾遺和歌集』の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、間の茅葺きの家であり貧しく(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後、道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったという」

太田道灌について書かれた小説はそれほど書かれていない、主人公としてかかれたものは幡大介による”騎虎の将太田道灌“のみで、司馬遼太郎の作品の中でも北条早雲について描かれた”箱根の坂“の中にも一部現れる。マンガだと同じ北条早雲を主人公とした”新九郎、奔る“に愛すべきキャラクタとして描かれている

さらに、道灌から400年以上遡った十一世紀の時代の武蔵の国の情景として、「更級日記」に記載された作者が幼少の頃に父親に連れられてこの君を過ぎた時の様子について述べられている。古歌に「武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ」とあるように、見渡すかぎりの草叢が広がっていた情景について述べられている。

さらに時代を降り、徳川家康が江戸を開発するときに、新たな家臣団として、北条氏八王子城にいた武士団を召し抱え、甲州街道の西端のおさえとして八王子に住まわせ、身分としては三十俵二人扶持(よくテレビドラマで出てくる江戸の同心の給料、米換算で四十、金額換算で十四両となる。江戸時代の初期は10両あれば1年を暮らしていけるレベル)で、武士といっても農地を開く、半農半武の屯田兵のようなものだったらい。

この八王子千人同心は、江戸中期に蝦夷地(今の北海道)がロシアからの脅威に晒された時に、蝦夷地の防衛と開拓のために現在の苫小牧の辺りに送り込まれ開拓を行ったが苛酷な自然環境などで不毛の原野の開拓は思うようにまかせず、2年目にして死亡する者16名、病にかかり帰郷する者多数出し、入植4年目に開墾地を離れたという苦難を味わったという苦しい歴史を持っている。その辺りの話を絡めた物語が辻堂魁の時代物である”風の市兵衛(9)風塵“に述べられている。

さらに時代を降り幕末となると、近藤勇土方歳三沖田総司らの新撰組の志士が甲州街道沿いから現れている。幕末から明治にかけては、徳川幕府に思いを寄せる旧幕イデオロギーとも言える思想を持つ人が江戸(東京)に多く残り、たとえば三菱の創始者が幕府を倒した土佐人の岩崎弥太郎だというだけで「私はね、三菱の電気製品は買いませんよ」と言ってみたり、東京以外の場所に行って嫌気がさしたときに「ああいう土地では、松杉を植える気にはなれませんよ」などと江戸っ子気質の濃い逸話について述べられている。

ひとしきり江戸の話が続いた後で、まずは小仏峠(上記地図の左端の星)に向かう

途中、駒木野(地図中星)で道を間違え左に向かってしまい「大ダルミ峠」に到達してしまう。

そのまま小仏峠方向に引き返し、最終的に高尾山に向かう

高尾山は東京近郊の中でも最も人気の高い登山コースでもある。

峠を途中で引き返した後は、江戸幕府最後の将軍の徳川慶喜の話に移る。昨年放映された「青天を衝け」でも草彅剛が好演したのも記憶に新しい

慶喜は、百才の持ち主ながら、さらに華麗な権謀の才をもち、しかも幕末のある時期、京都にあって宮廷と薩長勢力を相手にほとんど独演のような(幕府の権威を借りないという点で)大小の芝居を打ち続け、最後にまるで車軸が折れたように絶対恭順の姿勢になり、世を捨てたような障害を送るという面白さを持ち、一筋縄では捉えられない人物として扱われている。また、徳川家の中で最も長生きした将軍でもある(大正時代まで存命だった)。

司馬遼太郎から見るとこれだけの仕事ができるのは、徳川歴代の将軍を見ても、最初の家康と最後の慶喜しかいないとまで言い切っている。

次回は、葛城みちについて述べる。

コメント

  1. […] 次回は、甲州街道と江戸幕府について述べる。 […]

  2. […] 街道をゆく – 甲州街道と江戸幕府 […]

  3. […] めれば、荻生徂徠の考え方がかろうじて西洋に近いか」などと考えていたとのこと。前述した徳川慶喜が将軍の時に帰国し、慶喜の秘書役として京都におり、明治になって鴎外が上京し […]

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