街道をゆく 赤坂散歩

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サマリー

「街道をゆく」第33巻より。 前回白河会津の道について述べた。今回は赤坂散歩について述べる。

街道を行く第33巻赤坂散歩

赤坂散歩

今回の旅は東京・赤坂周りとなる。赤坂のホテルを起点として、雲南坂溜池日枝神社を歩きながら江戸時代の赤坂の光景について頭に描き、氷川神社豊川稲荷徳川吉宗大岡越前のことについて述べる青山通り乃木坂欅坂では、乃木希典のエピソードや高橋是清の人生について述べられている。

司馬遼太郎は東京の中でも山ノ手と呼ばれる場所、例えば中級の旗本屋敷の多かった市ヶ谷あたりが好きだったと述べている。しかし、山ノ手一般となると明治以前と維新後の間に大きな断層があり、さらに関東大震災の前後と、戦前戦後という二つの大断層もあり、変遷の歴史が大きくなかなか手をつけられない場所だったらしい。

その中で赤坂は、江戸初期を過ぎる頃まで人煙がまれで、赤坂まで水道が伸びてきた江戸中期頃からようやく台上に大名・大旗本の屋敷ができ、さらに台上には町屋がなく江戸文化が希薄であったため、関西人である司馬遼太郎にもとっつきやすい土地だったと述べられている。

赤坂では、台上のホテルに泊まったと書かれているが、ホテルオークラ東京であったらしい。

ホテルニューオークラとアメリカ大使館にある霊南坂をくだ入りながら、江戸時代に左側にあるアメリカ大使館に昔は大名の定火消しの屋敷があったことを想像しながら歩くのが好きだったらしい(下写真だと左側がオークラで右がアメリカ大使館となる)

江戸時代の消防(定火消し)は臥煙(がえん)と呼ばれ、文字通り煙を掻い潜って火事の現場にとびこみ、火の勢いの進むあたりをみて、未類焼の家屋を叩き壊し、火の手が他に及ぶのを防ぐのが仕事で、命懸けの仕事でもあった。

「勇む」ということがかれらの生存をかけた心意気であり、褌一つの素裸で火事場にとびこケム、平素も、暑い寒いは言わず、衣類はつけず、冬も裸の上にハッピ一枚を羽織って軽々と歩いていく。素肌には青や赤の彫り物を入れており、なるべく色白で男前のいいのが選ばれたとのこと。

無論、善良な市民とはいえず、平素、遊びの金に困ると、裕福そうな町屋に難癖をつけてけつな黄金をゆすって歩く。

江戸の消防には三つの組織があったらい。まず町ごとに費用負担をして、町奉行が監督する町火消し、これは江戸中でいろは四十八組にわかれて、”い組”からはじまり、最後の”ん”は発音しにくいので”本組”まで続く、彼らを人々は「町鳶(まちとび)」と呼んでいた。町鳶とは別に、幕府が江戸を行く区分に分け、十一人の大名にそれぞれ消火を担当させた大名抱えの鳶である「大名火消」、そして幕府直轄で裕福な旗本が責任者となり十組あった「定火消」となる。

赤坂溜池は、いまでこそ赤坂だが、江戸初期は桜田村といわれた区域に入っていて、桜田の池ともよばれていた。要するに自然の水たまりであり、赤坂台や山王台などの高地から流れ落ちる水が、低地であるこのあたりに集まってできた池で、大雨の時は遊水池となった。

上の写真は明治初期の赤坂だが、手前に池が見れる。江戸初期は都市飲料としてこの溜池しかなかった時代があり、相当にまずい水だったらしく、当時江戸城の修復をしていた肥後熊本の細川忠興が、しばらく国もとにかえらず西の丸に詰めてもらえないかと請われた時「冗談ではない、こんな泥水を飲んで過ごせるか」といって断ったという逸話も残っている。

ホテルオークラの中には、大倉集古館という美術館がある。

韓国や中国にありそうな建物だが、設計は東京駅を設計した辰野金吾によるものらしい。この中には日本や東洋の美術品が収められている。

赤坂台から氷川坂を通り、氷川神社に向かう。

この坂は、上の写真でもわかるように両側が林に囲まれ樹木が多い落ち着いた雰囲気の場所となる。

関東地方には古くから氷川神社と呼ばれる神社がある。出雲国の簸川(ひのかわ)郡の杵築(きづき)大社が勧請(かんじょう)され、聖武天皇(紀元700年代)のときに、氷川神社は武蔵国の一宮になり、武蔵国の神々の筆頭になった。

この為、源頼朝が関東で幕府を起こした時も、小田原北条氏が関東を制した時、あるいは徳川家康が江戸に入部したときも寄進をして敬意を表している。また明治天皇が明治になって東京に遷都したときにも、氷川神社に参拝している。

赤坂に氷川神社を鎮めたのは、八代将軍吉宗で、吉宗は元々紀州(和歌山)徳川家の第三子として生まれ、小大名で朽ち果てるところを、兄二人が相次いで死に、赤坂にある紀州藩邸(現在の赤坂離宮)の主となり、さらに当時の将軍に後継がいなくなり、将軍となることとなった。

そこで吉宗は愛着のある赤坂に氷川神社を建立した。赤坂は水道の水が引かれるのが遅く、他の地域と比べて田舎だったのが、吉宗の頃には水道も引かれ大名・旗本の屋敷も増え、それに従って町屋も増えていったが氏神がなく、赤坂の一ツ木というあたりに、氷川神社の小さい祠があったのを現在の場所に移したのが始まりと言われている。

石畳を踏みつつ社殿に向かうと、古い樹々が元気よく梢を伸ばしていて心地よい。拝殿・社殿はその奥にある。江戸の宮大工は腕が良いが、東照宮の影響のせいか、装飾過剰のきらいがあるが、氷川神社のそれは朱塗りをかけてところどころ鋼い金具を打っただけですっきりしている。

この簡素さは、倹約第一の吉宗の施政方針(享保の改革)があらわれたものと言われている。

またここでは秋に行われる赤坂氷川神社例大祭があることでも有名である。

この祭りは、上記の写真のように台の上に歌舞伎役者などの人形をすえた神輿(元々は山車(だし)だったものが、電線につかえるということで神輿になっていったとのこと)が担がれるようになったとのこと。

江戸は前述したように水に難があり、上水道を整備する必要があった。江戸はロンドンやパリと同時時期に発展し、水道の整備も同じように行われている。ロンドンやパリではそれぞれ支柱を流れるテムズ川やセーヌ川の水車で揚水しそれを支柱に配ったのに対して、玉川、神田、小石川等から取水して、埋伏された木製の管を使って江戸市中に分配した複雑なものとなる。

徳川幕府はこの上水機構の維持と管理をこまごまと行ってきたために、幕府瓦解までは上質な水を確保していたものが、明治維新で放置され、近代的な上水道工事が完了する明治三十二年までは東京の水はひどいものだったらしい。

東京には稲荷神社が多い。稲荷神社が多いのは、初代茗荷屋敷神として稲荷を勧請したこと、またその屋敷神を民間が信仰してやがて独立の境内を持つという例が多かったことによる。稲荷は、その大元締めである京都の伏見稲荷大社がそうであるように、神道であって、神官が斎きまっている。

祭神は宇迦之御魂(うかのみたま)(倉稲魂)をはじめとする三柱ということになっていて、古くは農業神とされた。のちに、商売から漁業に至るまでの繁盛を約束する神になった。もっとも稲荷の神の使いである狐への俗信の方が印象的となる。

赤坂には高名な豊川稲荷がある。

稲荷とはいえ、風変わりにことに寺となっているもっとも形は神道の稲荷信仰と一体となって習合しているものの、本尊は、インドの荼枳尼天(だきにてん)という女身の夜叉神となっている。

これは空海がもたらした密教体系のなかに存在し、もとはインドの土俗の鬼霊でヨーガの行者に信仰され魔力を持つ存在ながら、ひとたび法によって宥めれば行者を即身成仏させるという神になり、平安時代に密教が盛んになったときに日本の神教と習合したものとなる。

豊川稲荷は通称で、実は曹洞宗妙厳寺で道元が起こした”只管打坐(しかんたざ;ひたすら座禅せよ)”という教えの仏教だが、実は民間信仰に関しては寛容な宗風があり、この寺も妙厳寺の境内に、寺の守護のために荼枳尼天が祀られて、そちらの方が有名になったというものらしい。

赤坂の豊川稲荷から西へ向かい、国道246号線を青山通りへと向かうと最終的におしゃれな表参道の通りにつながる。

そこをしばく歩くと高橋是清翁記念公園に至る。

高橋是清は、昭和初期に起きた金融恐慌を収めようとした金融のプロで、ダルマを思わせる丸顔の風貌で市井の人に好かれていた人文であった。

彼は健全財政主義者で、当時の軍部が無制限に”帝国”の大拡大に向かうのを「そんな金はないのです」と跳ねつけ続け、そのため軍部に恨まれ昭和11年(1936年)二月26に日に起きた二・二六事件で決起した青年将校の手で暗殺されてしまう。

高橋是清翁記念公園から六本木方面に向かうと「乃木坂」となる。中国を除く海外では、都市の名前や街路の名、駅名、空港名などに歴史的人物の名をつける場合が多い、ヴェトナムのホー・チン・ミン市、ロシアのレニングラード市(現サンクトペテルブルグ市)、パリのシャルル・ド・ゴール空港等になる。しかしながら日本ではほとんど人名が用いられる例がない中で、この「乃木坂」は明治の軍人にして赤坂の乃木神社の祭神である乃木希典から取られた名となる。

司馬遼太郎の時代はここまでの話となるが、現在では「坂」シリーズのアイドル乃木坂46になるであろうか

旅の終わりは山王下にある日枝神社に向い終わる。

東京は様々な歴史と文化が詰まった街となる。

次回沖縄先島への道について述べる。

コメント

  1. […] ちなみに”街道をゆく 赤坂散歩“で述べた「勇み(いさみ)」と「いなせ」と江戸時代にもてはやされた「粋(いき)」の違いは、「勇み」が威勢がよく、おとこ気のある気風、「い […]

  2. […] 街道をゆく 赤坂散歩 […]

  3. […] 前回は赤坂散歩について述べた。今回の旅は沖縄県。沖縄では、本島よりもずっと南西に浮かぶ八重山諸島などを「先島(さきしま)」と呼び、沖縄本島首里、糸満漁港を訪れたのち、先 […]

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