街道をゆく 沖縄・先島への道

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街道をゆく 沖縄・先島への道

旅は人間が新しい場所を訪れ、異なる文化や歴史を体験するための行為であり、旅を通じて、歴史的な場所や文化遺産を訪れることで、歴史的な出来事や人々の生活を実際に感じることができ、歴史をより深く理解し、自分自身の視野を広げることができる。ここでは、この旅と歴史について司馬遼太郎の「街道をゆく」をベースに旅と訪れた場所の歴史的な背景について述べる。

街道を行く 第6巻 沖縄・先島への道

前回赤坂散歩について述べた。今回の旅は沖縄県。沖縄では、本島よりもずっと南西に浮かぶ八重山諸島などを「先島(さきしま)」と呼び、沖縄本島首里糸満漁港を訪れたのち、先島の入り口石垣島で市場や宮良殿内石垣家宮島御獄を訪れたのち、船で竹富島に渡り、犬の井戸牛岡の丘森の中の鍛治遺跡星砂の浜、喜宝院、蒐集館、小城盛島仲家、そして美女クヤマの安里家を訪れる。次に石垣空港から日本最西端の与那国島へ行きサンニヌ台女首長サンアイ・イソバの大岩と碑トゥング田などを巡って旅は終わる。

今回の旅は沖縄県の島々となる。最初に出てくる島の名前は”南波照間島“この島は日本の最南端にある(上記の地図だと左下)波照間島のさらに南にあると言われている実在しない幻の島となる。沖縄の神々は、砂漠の神が天からくるのとちがい、海からくる。その神が出発する島が南波照間島となる。

波照間島

沖縄県では、本島より南西の洋上に浮かぶ宮古島や八重山諸島のことを”先島(さきしま)”と一括する。波照間島もその先島の一部となる。

旅の始まりは、大阪の伊丹空港から飛行機で沖縄本島の那覇へ向かうことから始まる。

沖縄の旧王城があった首里は丘の上にある。首里の街は美しかったらしく「もし首里の街が戦前のままそっくり残っていたら、沖縄は京都、奈良、日光と肩を並べる観光地になっていたろう」と言われるが、太平洋戦争のおかげで無くなってしまい、今は首里公園にその跡を残すのみとなる。(首里城も2019年の火災で全焼している)

また那覇の繁華街である国際通りも台湾の風景に近い異国情緒がある。

沖縄が歴史に現れるのは753年、鑑真が日本に渡る途中で立ち寄ったとされるところから始まる。

その後しばらく動きがなく、司馬遼太郎によると1400年代までは、鉄器が導入されず、石器時代としての平和な時代が続いたとのこと。14世紀に入り鉄器が導入されて農業生産が飛躍的に増加し、人口も増えることでまず三つの王国(三山王国;北山、中山、南山)が勃興し、その中の中山の王尚巴志が南山と北山を滅ぼし琉球を統一し、周辺の先島諸島や奄美群島にも版図を拡げたが、1609年に薩摩藩の侵攻を受けて、しばらくは薩摩藩の搾取を受け、明治維新により沖縄県となる歴史を持つ。

那覇から、まず石垣島へ飛ぶ。石垣島へは南西航空を利用しての旅となる。

石垣島は八重山列島にある沖縄では3番目、日本全体では21番目の広さを持つ島となる。(人口は4万9千人程度)那覇からは410km南西に離れており、逆に台湾とは270kmしか離れていない。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中で、ロシアのバルチック艦隊を最初に発見したのは、この石垣島から東に133km離れたところにある宮古島で、ロシアの船を発見した漁師は石垣島にある電信所に知らせるために浜から丸木舟に飛び乗り、石垣島へついて日露戦争の趨勢を決める情報を送ったとのこと。

石垣島についた一行は、宮良殿内を訪れ、石積みの堀と、赤い琉球瓦の建物を見る。

石垣島では宮鳥御岳と呼ばれる神域も訪れている。

石垣島の次は、船で竹富島を訪れる。

竹富島では古くからある旅館である高那旅館に宿泊している。

竹富島を終えて一行は一旦船で石垣島に戻り、そこから空路、与那国島へ向かう。旧石垣空港は地方のフェリー乗り場のようなこじんまりしたものだったらしいが

現在では、新しい空港となっている。

与那国島は、形は四国に似ているが、大きさは淡路島の二十分の一、司馬遼太郎の時代(1970年代)は三千人ほどの人口だったが、現在の人口は1600人ほどに減っている。

macのデスクトップ画面にもあるような美しい島で、景色はよく、地形は山も野も断崖も大地も隆起珊瑚礁の浜もあって、八重山諸島の島々の中では一番に変化に富んでいると言われている。ちなみにmacの写真の場所はアメリカのカルフォルニア州『サンタカタリナ島』となる。

与那国島の特徴の一つにその葬制がある。風葬の一種である崖葬が行われており、崖葬墓は当時の村落近くに設けられている。その後、岩窟に遺体を安置して入口を石や土で密封して墓にするようになり、それが一般に広まって亀甲墓になっている。

これは、与那国島では、幽明の境がなく、死者もまたこの地上と同じ明るさの、あるいは地上以上にあかるい海風の吹き渡る台上で暮らす。さらには、琉球の神々は天から天降るよりも海からくるという信仰もあり高い場所にに墓がある。与那国島の中だと、例えば波多浜の台上に墓地はある。

島の旅は、与那国島の力強い女性首長である「サンアイイソバ」の話に進み、

村の酒場で泡盛を飲みながら、琉歌即興劇を見て終わる。

東南アジアの交流の拠点でもあり、さまざまな文化と交流し、磨かれた伝統工芸や芸能の技、宮廷料理などがいまに受け継がれる沖縄は、南の楽園として世界からも注目されている。

次回の旅は「因幡の白兎」の神話で知られる白兎海岸万葉歌人大伴家持ゆかりの地など古代文化が息づく鳥取地方の旅となる。

コメント

  1. […] また、天平勝宝5年(753)12月12日に”街道をゆく 沖縄・先島への道“でも述べた鑑真が屋久島に来日したり、平家滅亡後、平家落人(おちうど)にまつわる伝承・地名が今も残 […]

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