荘子の思想 心はいかにして自由になれるのか

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サマリー

『荘子』(そうし)は、戦国時代の思想家荘子(庄子)の名を冠した中国の古代哲学書であり、老子や孔子と並ぶ中国哲学の三大立派として知られているものとなる。

『荘子』は、全20篇からなり、それぞれの篇は独立した話や議論が展開されている。荘子の思想は、自由奔放でありながら、深い洞察力を持っていることが特徴で、その思想は道家思想や自然哲学、宗教的思想、人間関係についての論考など、幅広い領域に及んでいる。荘子の思想は一言で言うと「自由」であり、自由自在に生きることの大切さを説き、それを実現するためには、人々が偏見や縛りにとらわれないように、自由な発想を持つことが必要であると述べている。また、自然の摂理に従うことを強調し、人間は自然と共存することが大切であるとも考えていた。

『荘子』は、中国哲学の重要な古典の一つであり、その思想は、道教や禅宗などにも大きな影響を与え、その独特の文体や思考の方法は、中国の伝統文化において大きな影響を与えている。

ここでは、この荘子に関してNHK「100分de名著」ブックス荘子をベースに述べている。

荘子の思想 心はいかにして自由になれるのか

荘子は今から約二千三百年前、中国の戦国時代中期に成立したとされる思想書となる。著者の名前も荘子(荘周(そうしゅう))だが、この書と彼とその弟子たちが書き継いだものを一つにまとめたものとなる。歴史に名を残す思想家たちを見てみると、”孔子の論語 総合的”人間学”の書“で述べた孔子も”大乗仏教と般若経“で述べた釈迦も”ソクラテスの弁明“で述べたソクラテスも、自著を残していない。その思想を弟子たちが書き残したことで師匠の名前が残ったのだが、「荘子」の場合は明らかに荘子自身も書いており、師匠と弟子の合作という珍しいスタイルの本になっている。

ちなみに荘子の読み方だが、儒家の曾子(そうし)と区別するため、日本では「そうじ」とにこせって読むのが中国文学中国哲学関係者の習慣となっている。

「荘子」は、一切をあるがまま受け入れるところに真の自由が存在するという思想を、多くの寓話を用いながら説いている。「心はいかにして自由になれるのか」 その思想は、のちの中国仏教、すなわちの形成に大きな影響を与えた(中国から日本への禅の伝来は”臨済禅と鎌倉五山“等に述べている)。寓話を使っていることからも分かるように、「荘子」は思想書でありながら非常に小説的なものとなる。実は「小説」という言葉の起源も「荘子」にあって、外物編の「小説を飾りて以て(もって)県令をもと干む(もとむ)」という一節がそれになる。「つまらない論説をもっともらしく飾り立てて、それによって県令の職を求める」という意味で、そのような輩は大きな栄達には縁がないと言っている。あまり良い意味ではないが、これが小説という子どはの最古の用例となる。

実際に、日本でも作家や文筆家など、多くの人々が「荘子」から創作への刺激を受けている。よく知られているところでは、”街道をゆく – 河内のみち“で述べている西行法師、”「方丈記」豊かさの価値を疑え“で述べている鴨長明、”俳句の歴史とコミュニケーションの観点からの俳句の読み“で述べている松尾芭蕉仙厓義梵(せんがいぎぼん)。良寛も常に二冊組の「荘子」を持ち歩いていたと言われている。近代では”街道をゆく神田界隈“で述べている森鴎外夏目漱石、分野は異なるがノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士も「荘子」を愛読していて、中間子理論を考えていた時に、「荘子」応帝王(おうていおう)篇の「渾沌七竅(こんとんしちきょう)に死す」の物語を夢に見て、大きなヒントを得たと言われている。

「荘子」は反常識の書だ、ただ奇抜なだけだ、という人もあるが、普段カバン入れて持ち歩き、ふと思いついてパッと開いたところを読むだけで、何かが解ける気持ちにさせてくれるものでもある。とにかく管理や罰則など、いわゆる儒家や法家的な考え方が支配的な世の中(社会秩序とはそのようなものすもしれないが)で、果たしてそれは個人の幸せにつながるのか、「荘子」には常にその視点がある。個人の幸せというものをどう考えるかという視点に立つと、荘子の思想は欠かせないものになる。

現在では、人々は、言葉や思想というものが恣意的な都合でできあがり、暫定なものであるという認織を無くしている。たとえば、いわゆるグローバリズムの名の下に行われていることは、汎地球主義ではなく、欧米的価値観の押し付けだったりするわけで、実はさまざまな民族や宗教による考え方は非常に相対的なものであり、何かが絶対的に正しいというものではない、と徹底的に笑いながら話しているのがこの「荘子」となる。

また「自然」というものを考えた時、人間は、自然というものは、自分たちが全貌を理解して制御することが可能なものだと思い込んでいるが、自然とは恐ろしいものであり、人間がその全てを把握することなどけっしてできないという認織を、人知を超えたあらゆるもののありようを「道」ととらえ(いわばそれが「自然」でもある)、自然とは何か、それをもう一度考え直す時に、「荘子」は最良のテキストとなる(中国の三代宗教の一つである道教の根本的概念である「道」に関しては”水のように生きる-老子思想の根本にある道“でも述べている)。

「荘子」の徳充符篇(とくじゅうふへん)に「常に自然によりて生を益さざる」べしという言葉がある。これは、「自分の生によかれという私情こそがよくない、それが却って身のうちを傷つけるのだから、私情なく自然に従うべきだ」という意味だが、今の世の中はその反対で、自分の生にとってよかれという情報ばかりが欲望されている。

また応帝王篇には、「物の自然に順(したが)いて私を容るることなければ、而ち天下治まらん」という言葉もある。これは「私情を指し狭まなければ、天下はうまく治る」という意味で、エゴを押さえて肩の力を抜き「和」を目指すことが重要だと説かれている。

実は、荘子は「言葉」というものを信用していない。「それ言とは風波なり」(言葉は風や波のように一定せず当てにならないものだ)という人間世篇(じんかんせいへん)の言葉が、荘子の基本的な態度で、これは禅の「不立文字(ふりゅうもんじ)」にも繋がっていく思想となる。(言葉と意味の不確かさについては、現代の言語学や哲学でも考えられており、例えば”言語の意味に対する2つのアプローチ(記号表現と分散表現の融合)“や”人工無脳が語る禅とブッダぼっど“でも述べられている)

しかし、荘子がそう言っているからと言って、努力なしにいきなり「言葉はダメだ」と言っても仕方がない。言葉がどこまで役立つのか挑む必要もある。「妄言(もうげん)」しますから「妄聴」してね、というのが荘子の態度となる(「予(わ)れ嘗(こころみ)に女(なんじ)の為めにこれを妄言せん。女以てこれを妄聴せよ」斉物論(せいぶつろんへん))

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