可能世界と論理学
「必然」あるいは「必然性」という言葉の意味あるいは解釈を考えた時、国語辞典などは「必ずそうなること」とか「必ずそうであること」などという説明を記している。しかし、「必ずそうなる」とはどういうことかと問われると、それ以上の適当・適切な答えはなかなかすぐには思いつかない。
哲学では、「必然性」やそれと対になる「可能性(偶然性)」という概念について、「可能世界」という概念を使って説明をすることがある。
もともと「可能世界」という概念は17世紀から18世紀にかけて活躍したドイツの哲学者・数学者G.ライプニッツが考え出したと言われており、ライプニッツは可能世界の概念を神の心に結びつけて用い、現実に創造された世界が「全ての可能世界の中で最善のものである」と論じていたものとなる。
その概念で考えると、我々が生きているこの現実世界も一つの可能世界であるが、例えば、第二次世界大戦が発生しなかった世界も一つの可能世界として考えることができ、あるいは、今から10年後に地球が(何らかの理由で)爆発してしまう世界(宇宙)も一つの可能世界と考えることができる。
そして、例えば、「必然的に、2+2=4 である」という文(哲学的には、命題という)の意味は、
すべての可能世界において、2+2=4 である
というように理解し、「2+2=4 であることが可能である」という文の意味を
ある可能世界が存在し、その世界では 2+2=4 である
のように理解する。
このような「可能世界」の考え方に基づくと、可能性や必然性については、以下のように分析することができる。
- 真なる命題とは、現実世界において真であるような命題である。
- 可能な命題とは、少なくとも一つの可能世界において真であるような命題である。
- 偶然的な命題とは、それが真である可能世界も、偽である可能世界も存在するような命題である。
- 必然的な命題とは、全ての可能世界で真であるような命題である。
- 不可能な命題(必然的に偽の命題)とは、全ての可能世界で偽であるような命題である。
このような「可能世界」の理論は、現在の可能世界論は、可能性や必然性の意味論を扱うため、ソール・クリプキらによって1950年代に導入されている。
なお、Aをある文(命題)とし、「必然である」を記号□で表し、「可能である」を記号◇で表すと、「Aは必然である」は「□A」のように表記でき、「Aは可能である」は、「◇A」のように表記できる。
前述のような「必然」と「可能性(偶然性)」を導入した論理学である様相論理学では、こうした記号化を利用して、さまざまな考察をしている。前述の「必然性」や「可能性」の解釈はライプニッツ的な解釈として理解されているが、様相論理学では、複数の可能世界の間に「到達可能性(accessibility)」というような概念をさらに導入して、いろいろな「必然性」や「可能性」の意味を考察している。
“論理学を作る-第4部論理学はここから先が面白い“では古典論理学から拡張された論理学として、この様相論理学や、それにつながる多値論理、直観主義論理について述べている。
この「可能世界」に対する図書として、「可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える」がある。
以下にそのイントロダクション部分からの抜粋を述べる。
「何でもあり」の世界観―可能世界へようこそ
20世紀と21世紀の文化を特徴づけるキーワードの一つは「なんでもあり」となる。
たとえば幻術という分野。1917年にマルセルデュシャンが、自分では何も作らずに規制の便器を「美術作品」として提出した。またジョン・ケージは、ピアノの前にピアニストをただ座らせて何一つ音を出さない行為を「音楽作品」として上演し、ジェイムス・ジョイスは英語の単語を変形するのみならず諸々の外国語をも混ぜ合わせた人工言語で小説を書き、ジョルジュ・ペレックやレーモン・クノーは乱数的とりきめな従って文字や単語や文法を機械的に変換した戯曲や小説を書いた。ルチオ・フォンタナはカンバスを切り裂いただけの作品を延々と量産し、コンセプチュアルアートの芸術家たちは毎日ただ日付を書いていったり街頭でものを壊したり、りんごを放置して徐々に腐らせたりする行為をそのまま「美術作品」と称した。
従来の芸術の枠をはみ出した表現行為が芸術として認められ、人間の行為は然るべき文脈さえ与えられればなんでもかんでも芸術でありうる、という思想が瞬く間に一般化した。実際に、芸術家たちが「なんでもあり」の実験を実地に演じていてくれたために、想像と行為との関係、知覚と制度との関係、言語と概念との関係など、人類文化を形成する様々な根本テーマが鮮明な形で問い直された。
その反面で、公民意識や道徳制度の熟成にともない、無制限な表現行為に対する反動も現れてきている。とりわけ差別表現や政治的表現を弾劾する「言語統制」が盛んになっており、それがまた逆説的に「表現の自由」を掻き立てている。
この動きは宗教という文化中でも起こり、既成の大宗教が権威と信頼を失うにつれ、大宗教や大小諸々の民間宗教を様々な割合で混合し調合した折衷教義が世界中で創作されるようになって、最近100年以内にできた新興宗教の数は何万とも何十万とも言われている。しかしそれぞれの宗派の公称信者数を合計すると世界人口の何倍にもなると言われ、ここの人間にとっても信仰というものが唯一絶対の帰依などではなく、道徳・形而上学・祭礼・規律・オカルト・超能力などなんでもありの便宜的な生活形態に拡散しつつある。
このこの「何でもあり」は自然科学のような堅固なジャンルにおいても著しい成果を挙げている。現実に縛られた実験や観察よりも、数学的な自由、方程式の美しさを追求するところから先端科学の新現象が次々に予言され、確証されているのがその例となる。
これらは、座標系の選び方で同時性とか時間の進みとかが変化しうるとして、「絶対の時空」という常識を解体した相対性理論、素粒子が実際に取る経路は一つだけでなく、多くの経路・状態が共存しうるとして、「唯一の現実」という概念を揺さぶった量子力学。特に量子力学では理論の解釈を巡って多くの立場が分かれ、「何でもあり」の論争が活発に行われている。(量子力学に関しては”量子力学と人工知能と自然言語処理“も参照のこと)
自然科学の進歩を支えるのが数学なら、人文科学の進歩を支える基盤が哲学であり、論理学であると言える。哲学・論理学の分野でも、現実の在り方にとらわれない「何でもあり」の精神が目覚ましい成果を挙げつつあり、その中の中枢の武器が「可能世界」という概念となる。
数学の扱う数や量に限らず、あらゆる存在や概念-現実の偶然の在り方に縛られない様々な存在の共存の仕方、結びつき方、概念同士の関係などを、辻褄が合う限り全部認めて、可能性を探るのが論理学となる。「可能世界」という装置は、そうした無数の可能性という抽象的な概念が、それぞれ独立した存在として実体化されたものとなる。
これは前述の芸術家が「ノールール」の営みを頭だけで考えるのでなく実際に行ったことからいろいろな価値観が明るみに出て、隠れた真実が見えてきたのと同じように、無数の「可能な世界」を各々独立した存在として扱い、配列し、増やしたり減らしたりし、合成し、分割し、並べ替えたりすることから、哲学・論理学における多くの問題が解決されることとなっている。
「可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える」では、この「可能世界」に対して、「可能世界」がなぜ必要とされたのか、哲学で駆使される可能世界は、互いにどう関係しあっているのか、「可能世界」とは一体どのようなものなのか、可能世界の考え方である「可能主義」の中で最も極端な「様相実在論」とはどのようなものなのかについて述べられ、最後にそれらの観点から「命はなぜ存在するのか、私はなぜ存在するのか、宇宙はなぜこのような姿をしているのか」という古くから究極の問題に対して解釈を加え、「可能性」を細分化して定量化した「確率」についての話で終えている。
第1章 可能世界に何ができるのか 第2章 可能世界のネットワーク 第3章 可能世界とは何なのか 第4章 可能世界は本当に有るのか 第5章 自然科学と可能世界 第6章 可能世界の外側 第7章 応用編―可能世界で難問を解く 付 可能世界ブックガイド
可能世界と確率論と人工知能技術
このように、可能世界(Possible Worlds)の考え方は、哲学や論理学の分野で主に使用される概念であり、現実世界とは異なる可能性のある世界のことを指している。これは、物理的な制約や法則によって制約されず、さまざまな要素や出来事が異なる方法で展開する可能性がある世界であるということを言っている。
これに対して、確率論(Probability Theory)は、不確実性やランダム性を扱う数学の分野であり、事象が起こる確率や結果の予測を行うための枠組みを提供するものとなる。このような観点で考えると、確率論は、現実世界での事象の確率を評価するだけでなく、可能世界での事象の確率を考慮するということもできる。。
人工知能技術(Artificial Intelligence, AI)は、コンピュータシステムが知的なタスクを実行するための技術の総称であり、機械学習、深層学習、自然言語処理、コンピュータビジョンなどのサブ領域に分けられるものとなる。AIは確率論や統計学の手法を活用し、現実世界での事象やデータを解析し、予測や意思決定を行うことが主な目的となる。
この人工知能技術において、可能世界と確率論は、重要な役割を果たす。AIシステムは、現実世界のデータを分析し、可能な結果や予測を生成することが求められ、確率論は、データの統計的なモデリングや予測の信頼性評価に利用される。また、可能世界の概念は、AIシステムが複数のシナリオやアクションの可能性を考慮して意思決定を行う際にも応用することができると考えられる。
これは具体的には、自動運転車を考えた場合、AIシステムはセンサーデータや周囲の状況を分析し、可能な衝突回避の戦略を計画し、この計画は、異なる可能世界(例えば、他の車の動きや歩行者の行動が異なる場合)を考慮して、確率的なモデルに基づいて行われ、AIシステムは確率論的な予測や推論を行い、最適な可能世界を選択するものと解釈することができる。
このような複数の可能性を考慮したアプローチは、”解集合プログラミング(Answer Set Programming)“で述べているASP、”確率と論理の融合(1)ベイジアンネットとKBMCとPRMとSRL“や”確率と論理の融合(2) PLL(確率論理的学習)“で述べている確率との論理融合の理論、あるいは”確率的生成モデルについて“で述べている確率生成モデルのアプローチや、”Huggingfaceを使った文自動生成の概要“等で述べている深層学習を用いた生成モデルなど様々なツールを駆使して実装していくことができる。
コメント
[…] 可能世界と論理学と確率と人工知能と […]
[…] この”なんでもあり”というアプローチを自然科学のような堅固なジャンルに適用したものが”量子力学と人工知能と自然言語処理“で述べている量子力学であり、数学の世界にあてはめたものが、”可能世界と論理学と確率と人工知能と“で述べている「可能世界」と確率論となる。 […]
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