富士登山の歴史と登山競走

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富士登山の歴史

富士山は、日本の静岡県と山梨県にまたがる活火山であり、高さは3776メートル、世界遺産に登録されており、日本の象徴的として広く知られている存在となる。

富士山は、約10万年前に形成された成層火山であり、古代から噴火を繰り返す恐ろしい山として認織されており、平安初期の9世紀にはとりわけ大噴火が相次ぎ、里を焼き尽くす溶岩火山灰による被害は膨大で、山の神の怒りを鎮めるために、浅間神社をはじめとする神社が富士山麓に多く建てられた。そこで祭神として祀られたのが、日本神話にも登場するコノハナサクヤヒメであった。

コノハナサクヤヒメは、燃え盛る産屋の中で無事に出産したと伝えられることから、日に強い神として広く祟められていた。またコノハナサクヤヒメの進行は金鉱の多い九州が発祥であり、富士の周辺も金が採れる場所が多かったことから、金の神としてのつながりがあるとも言われている。

平安文学の「竹取物語」のラストは、かぐや姫から贈られた不老不死の薬を帝が富士山の頂上で焼却させ、その煙が今も登り続けているという場面となる。その後噴火活動はひと段落し富士山が静かになった鎌倉時代に入り、富士山は修験道の場として発展を遂げていく。そこでは、富士山祭神のコノハナサクヤヒメは仏教上では浅間大菩薩とされ、密教の中心仏である大日如来の化身とされていた。こうして富士山は遠くから崇拝するだけでなく、実際に登山へと変化した。

さらに最初は修験者しか登れなかったものが、貨幣経済が発達して旅行がしやすくなり、一般の信徒も登山できるようになった。これは山岳信仰が根付く国では特殊なケースであり、例えばヒマラヤなどでは、今でも神聖な場所ゆえ登山を禁止しているところが多い。山自体を信仰対象とする他の国に比べ「山は信仰すべき存在だが、その頂上には仏のおわす浄土がある」という思想が、登りたいという憧れを掻き立てた。神仏習合を遂げた日本ならではのユニークな宗教観となる。

宗教の形を借りた大衆登山という流れは、のちの江戸時代中期に大ブレイクする。その隆盛を担ったのが「富士講」という民間の信徒集団。地域でグループを作って旅費を積み立て、先達と呼ばれる経験豊かな修験者に先導されて登るという、富士登山ツアーが盛んに行われた。流行のきっかけは食行身禄という修験者で、時の権力者である徳川吉宗が行った享保の改革のあまりの厳しさに反発し、富士山に入って食を断ち、抗議の入定(自殺)を遂げた人物となる。この政治的プロテストが、庶民の絶大な共感を呼んで「富士山に帰依すれば救われる」というシンプルな教えとともに身禄個人へのカルト的な崇拝も高まって、富士講が大流行したのである。

富士山がこうした反権力的なイメージを帯びる一方で、富士講は庶民のレクリエーションとしての機能も果たした。幕府は富士講に禁令を出して規制したが、庶民にとっては登拝することで日常の不満がすっきりする効果もあり、絶妙な緩衝材となっていたようで、本物の富士山に登れない人のために、ミニチュアである富士塚が各地に作られて人気を呼んだ。

この白熱した富士山信仰も、明治政府神仏分離令により大きく打撃を受ける。神道による国家統一を図る明治政府は神社から仏教色をなくすことを徹底し、富士山は格好の槍玉に挙げられた。そのため、現在の富士詣では宗教色は全くなくなりレジャーとしての登山のみとなってしまった。

富士登山競走

そのような富士山を登るイベントの中で近年盛り上がりを見せているものが「富士登山競走」となる。これは”BORN TO RUN 走るために生まれた“で述べたトレイルランとして日本での最も歴史があり有名なレースの一つで、毎年7月に山梨富士吉田市で行われる富士山を登る山岳マラソン大会となる。第一回は1948年(昭和23年)に行われ70回以上開催された歴史を誇るものとなる。

コースは標高770mの富士吉田市役所前で、しばらく平地を走ったあと北口本宮富士浅間神社から鳥居をくぐり

登山口(吉田口登山道)を通り、

五合目を抜けて

山の荒地を抜けて

富士山頂久須志神社までの21km、

標高差は約3000mのコースで、このコースを制限時間4時間30分(5合目での制限時間2時間15分)という非常にハイペースで走る必要があり、完走率も50%を切るかなりの難関レースとなる。コースマップを以下に示す。

このレースには2度程参加したことがある。いずれも何とか完走することができたが、自分のレース人生の中で最大級とも言える過酷な経験であった。箱根の標高が880mであるのと比較すると、3000mの標高差は3倍以上の高さを登るものとなり、それを4時間30分の制限時間で登り切るというものは、通常のマラソントライアスロンのレースでの、ほぼまっ平な平地を心拍数を上げずひたすらペース配分を守って我慢しながら走るものに対して、心肺機能に対する負担を強いる正に「心臓破り」のレースとなる。更に5合目を過ぎたあたりから空気も薄くなり、呼吸器系への負担も大きくなる。

BORN TO RUN走るために生まれたで述べたタラウマラ族は、約2000mの標高の山岳地帯での80kmを、6時間〜8時間のペースで走る。富士山登山競争の経験から考えても、彼らは単にベアフットで効率的な走りができるというものだけでなく、凄まじい心肺機能を持ったララムリ(走る民族)だということが想像できる。

コメント

  1. […] DNFを大きく感じるのは、やはり最後のランのパートになるだろう。前回述べた富士登山レースや一般的なマラソンレースではそれなりのハイペースで走る必要があり、アスリート的なパフォーマンスが要求されるのに対して、トライアスロンでの最後のランのパートは、正真正銘の「持久力」が要求され、それが限界に近づくとDNFの文字が浮かんでくる。 […]

  2. […] 富士登山競走 […]

  3. […] その他にも江戸っ子のわるふざけの顛末を述べた「大山詣り」(“富士登山の歴史と登山競走“で述べた山岳信仰の一つで相模国の大山(現伊勢原市)を参詣する行為)、女嫌いで通ったお店の番頭が、男嫌いで有名な踊りの師匠に惚れる噺となる「坂東お彦」などがある。 […]

  4. […] 富士登山の歴史と登山競走 […]

  5. […] ラフ地震”、「貞観津波」と呼ばれる東北地方を襲った”津波”、”富士登山の歴史と登山競走“にも述べている”富士山の噴火”、天然痘やはしかなどの疫病、旱 […]

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