興福寺と武芸の聖地 

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興福寺と武芸

司馬遼太郎と池波正太郎と時代小説“でも述べている時代小説の中で辻堂魁の「風の市兵衛シリーズ」は「この時代小説がすごい! 2022年版」でもBEST8にランキングされた人気のシリーズとなる。主人公の唐木市兵衛の設定は、38歳の浪人口入れ屋「宰領屋」の紹介で、渡りの用人として一時的に武家や商家に雇われ、算盤の特技を生かして家政を切り盛りする。そのため、算盤侍、あるいは青侍と呼ばれ、一方で、剣の腕も凄まじく、任務中に遭遇する様々な危難を秘剣「風の剣」で切り抜けるとなっている。また、この「風の剣」は奈良の興福寺で修行して会得したとされている。

また、興福寺の子院である宝蔵院の院主である覚禅坊法印胤栄は、剣聖として有名な上泉伊勢守から新陰流を学び、それを槍に適用して、直槍に三日月型の枝槍をつけた十文字槍を考案し「槍の宝蔵院」と呼ばれる武芸の達人となっている。その宝蔵院の二代目胤舜は小説「宮本武蔵」に登場し、武蔵に対して「敗けた。おれは敗れた。強いことにおいておれは勝っている。しかし、形では勝ったが、やはり敗けた。」と言わしめた。

このように興福寺は寺院でありながら、武芸の聖地としてさまざまな小説の中に登場している。

興福寺とは

興福寺は、奈良県の中心、平城京跡のすぐ近くににある寺院であり法相宗大本山となる。

法相宗とは、個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様について、我々人間がどのように認識しているのか、という”禅とメタ認知とAI“で述べている現代でいう認知科学の考え方を極めた哲学的な側面を持つ仏教で、「西遊記」で有名な玄奘三蔵がインドから帰国し伝えた唯識論をベースとした宗教となる。

この法相宗は、”インターネットと毘盧遮那仏 – 華厳経・密教“で述べられている華厳宗が隆盛となるに従い勢いを失っていった古い宗派でもあり、”空海と四国遍路とサンティアゴ巡礼“で述べている空海や”最澄と天台宗“で述べている最澄が真言宗と天台宗を広める前に奈良で勢力を誇った南都七大寺の一つとなる。

平安時代には、法相宗の教え自体は勢いを失っていったが、興福寺は藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であることから、古代から中世にかけて強大な勢力を誇ることとなった。

興福寺は、藤原氏の氏神である春日神社との一体化も進み、興福寺の宗徒が春日神木を振りかざす強訴を始めたり、”街道をゆく- 洛北諸道とスタスタ坊主と山伏と僧兵と“で述べているような僧兵団を形成して台頭してきた武士集団に対抗し、戦国時代が終わるまでは、大和国(奈良県)を支配する勢力となっていった。前述の武芸との絡みの話は、これらの歴史が背景になっている。

興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきている。特に”日本のアートの歴史と仏像につにいて“でも述べている治承4年(1180年)の、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による被害も甚大で、東大寺と共に大半の伽藍が焼失してしまっている。

さらに”明治のアート フェノロサと岡倉天心と茶の本“にも述べているように、明治の神仏分離令、これまで融合していた神と仏が明確に区別され、寺院や仏像の価値が大きく損なわれ、興福寺の五重塔は25円(現在の価値でも20万円程度)で落札されるようなことが現実に行われた。

近隣住民の反対でこの動きはなくなっただけではなく、更に寺院の積極的な復興も行われ、東金堂や五重塔は再建され、1998年には世界遺産に登録されるまでになっている。

さらに、中金堂も平成30年(2018年)に復元され、往年の姿が甦りつつある。

また、興福寺は国宝仏像の指定数が日本一多い寺としても有名であり、南円堂にある不空羂索観音菩薩坐像(ふくうけんさくかんのんぼさつざぞう)を中心とした、四天王立像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)

中金堂にある釈迦如来像

東金堂の薬師如来坐像と文殊菩薩と維摩居士(ゆいまこじ)坐像、さらにその両脇に日光・月光菩薩立像等を見ることができる。

さらに、国宝館では有名な阿修羅像をはじめとした仏像だけでなく、絵画、工芸品、古文書など寺の歴史を伝える貴重な宝物が数多く所蔵・安置されている。

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